2012-07-05

インターネット上での自由は、もはや限界に達した。これからはピアネットだ

インターネット自由宣言というものが耳目を集めている。聞けば、インターネットをフリーかつオープンするデクレレーションなのだとか。果たしてそれはフリーへのスレットに対してエフェクティブにファイトできるものなのか。容易に二重思考を招きやすい音訳の多用はさておき。

結論からいうと、この宣言は全く機能しない。将来は、私の提唱するピアネットへの移行が必須となる。それはなぜか。そもそもピアネットとは何か。それを初めから解説する。

そのまえに、ともかくこのインターネット自由宣言を、参考のために訳してみよう。

インターネット自由宣言

前文

我らは自由かつ開かれたインターネットが、より優れた世界をもたらすと信ずる。インターネットの自由と開放性を守るため、我らは人類と業界と国家に対し、これらの理念の認識を呼びかける。我らはこの理念がさらなる創造と、さらなる発展と、さらなる開かれた社会の実現を助けるものと信ずる。

我らは我らの自由を守る国際的運動に参加する。何故ならば、我らは自由の防衛がまさに闘争するに値するものと信ずるからである。

理念について議論せよ。同意するにせよ同意せざるにせよ、議論し、翻訳し、その思想を自らのものとして、汝の社会に広めて議論せよ。インターネットのみがそれを可能とする。

インターネットの自由と開放性を守るために参加せよ。

[以下の文章は、reddit, Techdart, Cheezburger, GitHubでも扱っている。 ]

宣言

我らは自由にして開かれたインターネットのために決起する。

我らはインターネットの規則を作成するための透明にして参加可能な機構を支持し、五つの基本理念を確立した。

表現:インターネットを規制せぬこと。

取得:高速かつ安価な差別なきネットワークへの接続を支持すること。

開放性:インターネットを、皆が自由に接続し、交信し、書き、読み、閲覧し、話し、聞き、学び、作り、発展させることができる、開かれたネットワークに保つこと。

個人情報:個人情報を守り、皆が個人情報と個人機械の使われ方について支配できる力を守ること。

accessの適切な訳語が思いつかなかったので、とりあえず接続を選んだ。accessとは、自発的に得ることだが、取得とか提供は適切ではない。

なぜ、高速で高速かつ安価なネットワーク、しかも差別なきネットワークが重要なのかというと、そうでないネットワークは中立ではないからだ。たとえば、ボイスチャットやビデオチャットなどに代表されるVOIPアプリケーションの利用に、追加の利用料を貸すようなネットワークは、公平ではない。なぜならば、どのアプリケーションも、本質的にネットワークの使用方法は同じだからである。ネットワークを流れるデータの内容や、アプリケーションの作りによって追加の利用料を貸すようなネットワークは、不公平で競争を阻害する。たとえば、ネットワークの提供者は、自らが提供するVOIP技術を推奨するために、そのような懲罰的利用料を課すかもしれない。

さて、この宣言はうまく機能しない。なぜかというと、この宣言は利用者階級から提供者階級に請願する形をとっているためである。

インターネットには、二つの階級がある。提供者と利用者である。利用者階級とは我々個人のことで、提供者階級とは、国家、政府、企業などと呼ばれている存在である。なぜ階級があるのかというと、提供者は利用者に対して、圧倒的有利な立場に立っているためである。提供者が利用者にインターネットを提供しなければ、利用者は利用者たることができない。提供者に拒絶された利用者は、もはや階級すら与えられないのだ。つまり、インターネットの世界には、存在しなくなる。

これはなぜかというと、インターネットのネットワークは、個人の力では構築できないからだ。残念ながら、個人の力で海底ケーブルを引くことはできない。インターネットのネットワークを構築するには、国家や企業の力が必要になる。

ここに階級戦争が起こる。国家や政府は都合の悪い情報を検閲、規制しようと考える。企業は利益を最大化するために、ネットワークの利用を制限しようと考える。利用者側に戦い返す武器は、ほとんどない。

さて、この階級の認識をした上で、上記のインターネット自由宣言を読むと、これが基本的に、利用者から提供者への請願という形であることが分かる。つまりは、上等階級に対して高徳な振る舞い(ノブレス・オブリージュ)を求めているのと、実質は同じである。上等階級は、自分に都合のいい範囲でのみ、下等階級を庇護する。徳といったところで、その定義は結局、上等階級が行うのだ。

残念ながら、この階級の成立は、インターネットの仕組み上必然であり、階級戦争などというのは無駄である。仕組み上必然的に構築される階級制度を打破することはできない。これは、社会主義者が過去に失敗した。

しかし、階級が存在する以上、ネットワークに真の自由はない。これがインターネットの限界である。しかも、今後インターネットの自由度は下がるばかりで、上がることはない。中江兆民は、その著書、三酔人経綸問答で、上から与えられる回復の人権を提唱した。つまり、昔は必要だった上の階級の絶対的な権力を、高徳な上の階級が、少しづつ下々の階級に返していくというものである。インターネットではこれは通用しない。なぜならば、インターネットは昔のまだ認知度が低い時代の方が、むしろ自由度が高かったのだ。広く認知されるようになって、国家政府企業に目をつけられ、規制されるようになってきた。この傾向は今後ますます加速するだろう。つまり、規制は増えこそすれ、減ることはない。権利の回復はない。

革命を起こして、現在の提供者階級を打倒するというのも、意味がない。なぜならば、その場合、革命家である利用者の一部が、新しい提供者階級に変わるだけだからだ。単なるクビのすげかえに過ぎない。階級制度は依然として残る。階級制度が残る以上、不平等は解消されない。社会主義者は、階級制度を打破するとして革命を起こしたが、結局言葉遊びに終始しているのみで、本当の意味で、階級制度の消失に成功した者はいない。

たとえば、図書館の自由に関する宣言にしても、提供者階級である図書館が利用者階級である読者に対して支配的な階級にある立場を理解した上で、できるだけ階級的優位性を行使できないよう、自らを縛る宣言になっている。特に重要なのは、必要以上の期間、利用者の閲覧履歴を保持しないというものがある。閲覧履歴は、速やかに破棄して残さない。これにより、たとえ私がマルクスの共産党宣言とか、ヒトラーの我が闘争とか、サリンジャーのライ麦畑でつかまえてを読んだとしても、その事実が知られる自体を、できる限り防ぐことができる。つまり、図書館の自由に関する宣言とは、単に提供者階級の努力宣言である。しかし、提供者自身が、自らが上等階級である提供者に属することを認識した上で、自縄自縛の宣言をだしたわけだ。もちろん、階級が存在する以上、原理的にうまくはいくわけがないが、自覚があるだけ、まだマシだ。一方、このインターネットの自由宣言は、下等階級である利用者からの提案である。うまく行くわけがない。

もはや、インターネットは限界である。その仕組み上、これ以上の自由を実現することはできない。

たとえばDNSだ。もはや、中央管理された全世界共通のDNSという仕組みは崩壊している。なぜならば、提供者階級はDNSを検閲しているからだ。あるドメイン名を使って提供される違法行為を行うWebサイトは、ドメイン名を剥奪される。今、この違法行為は、実際に違法行為であり、止めるべきだとしよう。これが現実に存在する物理的な店舗の違法行為の場合、行政からの要請や、裁判所からの命令によって、運営を差し止めることができる。しかし、Webサイトを止めるために、DNSからドメイン名を検閲するというのは、現実に例えれば、店舗に繋がる道路を破壊して、客が店に行きにくくするということである。技術的に完全に間違った方法である。しかし、階級制度のために、この完全に間違った方法が公然と行われている。つまり、DNSは、もはや信頼できない。

利用者がネットワークに接続するには、提供者からネットワークの提供を受けなければならない。しかし、これにも提供者階級の魔の手は伸びている。提供者は利用者への提供を拒むことができるのだ。特に、いくつかの国で行われている、いわゆるスリーストライク法は、脅威である。これは、利用者がインターネット利用にあたり、著作権侵害を三度警告された場合、インターネットへの接続を法的に禁ずるというものである。この警告というのは非常に危険だ。なぜならば、多くの場合、適切な裁判によって著作権侵害かどうかの判決を出した上でカウントするのではなく、著作権保持者からの申告によって、裁判所でもない非公開の方法で決定されるからである。しかも、著作権保持者は、機械的な検出方法によって、警告を生成しており、誤爆が甚だしい。そのような推定有罪かつ誤爆を含む警告によって、利用者のインターネット接続は剥奪される。

さらに、提供者であるネットワークのプロバイダーは、ネットワークの利用方法に応じて課金したり、帯域を制限したり、拒絶したりしている。このため、公平な通信ができない。

つまり、インターネットへの接続を、提供者階級に頼る以上、原理的に自由は保証できない。自由は闘争して勝ち得なければならないのだ。しかし、闘争手段を誤ってはならぬ。共産主義者の愚を繰り返してはならない。

もし真に自由なネットワークを欲するとしたら、仕組みを変えなければならないのだ。全員が提供者かつ利用者であるという仕組みのネットワークにしなければならない。つまり、このネットワークには、仕組み上階級が成立しない。私はこれを、ひとつの参加者階級で構築されるネットワークという意味を込めて、ピアネット(Peernet)と呼びたい。

私の構想するネットワークでは、ピアネットでの参加者階級は、全員ノードと呼ばれる。ピアネットは、物理層からP2Pなネットワークで構築することができる。すべてのノードは平等に提供者かつ利用者である。すべてのノードは、周りのノードとの、後述する複数の通信方法を持つ。ノードは周りのノードと通信することにより、中央制御のないその場限りのネットワークを構築する。特定のノードとの通信は、その刹那的なネットワーク経路を通って送られる。もちろん、ノードの応答時間や帯域や存在時間は幅広く異なるので、このネットワークはとてもロバストに設計されなければならない。応答時間は、数日とか数ヶ月とか、ときには数年といった長い時間すら想定されるべきである。帯域は大きな問題だが、単位時間あたりの帯域は、十分に確保できるだろう。存在時間というのは、ネットワークに参加して参加して数分で消えるようなノードも考慮しなければならないという事だ。つまり、ノードによって構築されるネットワークは、ノードが短時間で動的に現れたり消えたりすることを考慮の上で構築されなければならない。

通信方法はどうするか。通信方法は、複数の方法を組み合わせて使用できる柔軟な仕組みになる。現在、信頼性のある通信手段は、有線によるものであるが、有線は個人が敷設するにはコストが大きい。そのため、一般的なノードが使うのは、無線になるだろう。多くのノードは、電磁波や光や音といった、無線で通信できる装置を備えており、周囲のノードと通信する。範囲は、数メートルから数十メートル、大規模な装置を使えば、数百メートルから数キロメートルを実現できるだろう。P2Pネットワークにより、無線通信で届かないノードとでも、周囲のノードを経由することにより通信可能だ。

有線は、十分な費用を捻出できる参加者だけが使える通信方法だ。有線という通信手段は、応答時間や帯域の点で非常に優れている。このため、参加者の間で、有線通信を提供できる参加者は、同じ階級ではあるが、少し優位に立つ。しかし、有線という通信方法が存在しなくても構築可能なピアネットでは、絶対的な階級差とはならない。

さらに、スニーカーネットと呼ばれている通信方法も活用する。これは、記録媒体を直接やり取りする通信方法で、文字通り足で運ぶこともあるから、スニーカーネットという名前が付いている。この通信方法は、応答時間が極端に長いが、高密度の記録媒体を使えば、単位時間あたりで非常に優れた帯域を実現できる。

つまり、ピアネットとは、最初に述べたように、複数の通信手段を共通の方法で扱う、物理層からP2Pなネットワークである。全ての参加者がネットワークの構築に関与し、中央管理は存在しない。そのため、規制や検閲が極めて困難になり、自由が保証される。

まとめ:

インターネットは、その仕組み上、階級制度の成立が避けられず、完全に自由を保証できない。

自由なネットワークの未来は、全員が参加者階級となるピアネットの構築にかかっている。

2 comments:

Anonymous said...

それってFreenetとはどう違うの?

Anonymous said...

これは遠まわしな GNUnet の話ですかね?
https://gnunet.org/