2008-08-05

完璧と刎頚の交はり

完璧という言葉は、現代の日本においても、広く使われている。この言葉は非常に深く日本語になじんでいるため、我々はつい、これが漢語であることを忘れがちである。しかし、この言葉は、実は二千年以上前の、ある中国の故事からきた言葉であると言ったならば、果たして信じられるであろうか。古くは印刷技術、最近ではコンピュータの発達により、我々は漢字を急速に忘れつつある。この完璧の璧(へき)という漢字も、よく壁(かべ)と間違えられてしまう。よく部首を見ると、璧は玉あしだが、壁は土あしである。これらは違う漢字で、その指すところのものも異なる。ではへきとは何か。Googleに聞いてみると、なにやら中央に穴の開いている円盤であることが分かる。これは中国の伝統的な飾りなのだ。

刎頚の交はりというのは、今の日本において、それほど頻出する言葉ではない。友のためなら首を刎ねられてもかまわないという、なんとも物騒な言葉だ。一般常識として知っている日本人は多いが、日常会話で使うということはまずない。昔、ロッキード事件に関して質問された小佐野賢治が、自分と田中角栄との仲は刎頚の交わりであると発言したことがあったが、あれは誤りである。というのも、この言葉は本来、私利私欲を超えた国のための忠義心から生まれた言葉であって、袖の下を通す俗悪な役人が発していい言葉ではない。

紀元前284年のことである。趙の恵文王は、ある手紙を前にして、頭を抱えていた。手紙は秦の昭襄王からのもので、趙王の持つ和氏の璧を我が秦国の十五城と交換して欲しい、というものであった。和氏の璧とは、その四百年ほど昔からある、有名な玉璧であった。どのような巡り会わせか、今は恵文王の手にある。この手の宝を所有しているということは、王の力の強大なことを内外に示す手段でもあったのだ。その璧を譲ってくれというのである。しかもタダではなく、十五城もやるというのだ。確かに天下に名高い名玉の璧ではあるが、十五城と交換というのであれば、まんざら悪い話でもない。恵文王は武功高い良将と廉頗に相談した。そもそもの問題は、大国の秦が小国の趙と、誠実に取引をするかどうかということである。璧だけ取り上げて、対価の城については、知らぬ存ぜぬで通す可能性は十分にある。しかし、もし璧を渡さなければ、秦に趙を攻める良い口実を与えてしまうことにもなりかねない。

恵文王をはじめとして重臣たちも、どうしたらよいものか判断が下せなかった。そもそも、一体誰を使者として秦に遣わせばいいのか、それすら決まらないでいる。そこで繆賢という者が、自分の食客に藺相如という賢者がいると申し出た。恵文王が会って、璧を渡すべきかどうか訪ねた。
「秦は強国で、趙は弱国です。渡さないわけには参りますまい」
「しかし、秦が璧だけ取り、趙に城を渡さなかった場合はどうするのだ」
「秦が城をもって璧を所望しているのに渡さなければ、非は趙にあります。趙が璧を渡したのに、秦が城をよこさないというのであれば、非は秦にあります。この二つを比べれば、渡したほうが得策でしょう。もし秦が城を渡さなければ、天下に秦の無道を知らせることができますから」
「では誰を使者に立てるべきだろうか」
「他に人がいないというのであれば、私が行きましょう。もし秦が城を与えるならば、璧を渡してきましょう。もし城を渡さなければ、璧を完うして趙に帰ってきます」
璧を完うす、というのは、璧を無事に趙に持ち帰るという意味である。これが完璧の由来である。ご存知のとおり、中国語はSVO文型なので、「完璧」、となる。恵文王は相如に璧を奉じ、西のかた秦に入らせた。

さて、相如が秦に着いてみると、昭襄王はさっそく謁見した。相如から璧を受け取ると、左右の臣下や美人に見せびらかした。左右の者は万歳を叫んでいる。相如は秦王に十五城を渡す意が無いことを見て取ると、御前に進んで言った。
「実はその璧には瑕があります。教えておきましょう」と。
そして璧を受け取ると、すぐに下がって柱に向かった。怒りのあまり逆立った髪が冠をつらぬかんばかりであった。
「大王は十五城と引き換えに璧を所望した。趙王および群臣は皆、秦が約束を守らずに璧だけを受け取るだろうと言い張り、璧を渡そうとしない。しかしこの私は、人は身分を越えた交友すら破らないというのに、まさか秦ともあろう大国が約束を破るはずがない、と説き、またたかが璧ひとつをもって秦と事を構えるべきではない、とも説き聞かせ、このたび趙が璧を奉じるに至ったのだ。璧を奉じるに際し、趙王は身を清め食を断ち斎戒すること五日。今、大王使者に対して礼節なく、璧を得るや、女などに見せびらかす。十五城を与えるという約束はどうなったのだ。あえてこの璧を奪う気ならば、我が頭と共に砕いてしまおうか」
相如は柱をにらみ、璧を持った手を振り上げた。

秦王は璧が壊れることを恐れて、有司を呼んで地図を指し示し、ここから十五都を趙に与えると言った。相如は信じず、秦王にむかって言った。
「和氏の璧は天下の宝、趙王は璧を送るとき、斎戒すること五日なり。今大王も亦た宜しく斎戒五日して、国賓を迎える礼を取ってもらいたい。璧はその後にお渡ししよう」
秦王はこれを聞き、強いて璧を奪わず、五日間の斎戒に入った。しかし相如は、斎戒したからといって約束を守るとも思えず、従者に下人の格好をさせて、璧を持たせ、ひそかに趙へ帰した。さて、五日の斎戒を終えた昭襄王は、国賓の礼をとって藺相如を迎えた。相如は言った。
「秦は繆公以来二十余君、いまだかつて約束を守った者がおりません。そのため、人をして璧を持ち帰えらせました。秦は強く趙は弱し、趙が秦と事を構えるたがることはありません。大王がまず十五都を割いて趙に与えれば、趙は必ず璧を奉じるでしょう。ただし、私の大王を欺いた罪はどうしようもありません。この上は釜茹でにでもされたがよいでしょう。」と。
武将達が即座に相如を囲んだ。しかし秦王はこれをとどめて言った。「今相如を殺しても、璧は得られんし、趙を敵に回すだけだ。相如は厚く遇して帰してやれば、趙王もたかが璧ひとつで秦を欺くことはないだろう」と。こうして相如は無事に趙に帰った。感心した趙王は相如を上大夫に任じた。

その後、秦は城を趙に与えず、趙も璧を秦に与えることはなかったという。また秦は趙を攻め、石城を落とし、二万人を殺した。

秦は兵を澠池というところまで進めて、趙に使者を送り、澠池で会を開こうと告げた。趙王はまたも頭を抱えることとなった。秦のことだから、うかつに出て行けば、会の途中で殺されるか、人質となって国を奪われるに決まっている。しかし、廉頗、藺相如が、王が行かなければ、趙の弱くしてかつ怯なるを示すだけだと進言した。趙王は相如を従えて澠池に向かった。廉頗は境まで送り、こう言った。「澠池まで行って、会遇の礼を終え、帰るまでに、三十日を過ぎることはないでしょう。三十日経っても帰らなければ、太子を立てて王とすればいいでしょう。そうすれば秦に付け入る口実は与えません」と。王は廉頗に同意した。そして、ついに澠池で秦王と会した。

酒宴も進んだとき、秦の昭襄王が言った。「趙王は音を好むと聞く。ひとつ瑟を奏してもらいたい。」
瑟とは琴の一種なのだが、遊女の弾くものである。賎しくも王の弾くものではない。趙の恵文王は、頼まれた以上嫌とも言えず、恥を忍んで瑟を弾いた。すると、秦の記録係である御史が進み出でて、「某年月日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と記録した。これではまるで、趙王が秦王のために賎しい瑟を弾いている、すなわち趙は秦の属国であるということになってしまう。ここで相如はすかさず、酒を入れる土器、盆缻を手に、秦王の前に進んで言った。「秦王は秦の伝統音楽に巧みであると聞いております。ひとつこの盆缻を打って酒興をそえてくださいますよう」
秦というのは、中国でも辺境に位置して、まだ中国式の礼儀に浴することが浅く、茶碗を打ち鳴らすような粗野な文化が色濃く残っていたのである。もちろん、これも王たる者の行うことではない。秦王は当然怒るばかりである。相如はさらに秦王の懐近く進み、「私と大王の間はわずかに五歩、私の頚血を大王にあびせることもできますぞ」と言った。無論、自分の首の血がかかるころには、王も命はないのだという意味である。駆けつけようとする兵士をも一喝して退けた。秦王はしかたなく、盆缻を手に取ると、一たび打った。相如は趙の御史を呼んで、「某年月日、秦王、趙王の為に缻を撃つ」と記録させた。
またその後も、秦の群臣の、「秦王の長寿を祈願して、趙の十五城を献上なされてはいかが」という物言いに対し、「秦こそ趙王の長寿を祈願して、首都咸陽を献上すべきだ」と言い返した。こうして酒宴が終わるまで、ついに秦が趙の揚げ足を取ることはできなかった。

こうして趙の恵文王は、無事に国に帰った。そして相如の功をたたえて、上卿に任じた。上卿とは、将軍より上の地位である。これを聞いて面白くないのは、ほかならぬ将軍の廉頗だった。「自分は命をかけて斉と戦い、その功あって将軍となったのに、藺相如は口舌をもって、我が上にいるとは。しかも奴は、もともと何の位も持たない賎しい食客だったではないか。もし今度相如を見かけたならば、必ず恥をかかせてくれよう」と怒鳴ったという。相如はこれを聞くと、廉頗と会うことを努めて避けた。病と称して朝廷に出ず、もし道で廉頗の車がやってきたならば、自分の車をわき道にそれさせてまで出会うことを避けた。これに嫌気がさした相如の部下達が、相そろって暇乞にきた。「私どもがいつ死ぬとも分からぬ親元をも離れ、君に仕えているのは、ただ君の高義を慕えばこそのこと。廉頗のような格下の将軍に逃げ隠れしているとは、凡人すらこれを恥じるのに、いわんや将相においてをや。私どもは情けない。どうか暇を下されますよう」と。藺相如は固くこれをとどめて言った。
「お前達は廉将軍より、秦王を恐れるに決まっているだろう」
「その通りです」
「その秦王ですら恐れずに叱咤し、その群臣を辱めたこの私だ。身不肖ながら、何でひとり廉将軍を畏れんや。ただし、なぜ強国の秦が弱国の趙を直接攻めてこないかといえば、この私と廉頗がいるからだ。もし私が廉頗と戦えば、どちらかは死なねばならぬ。私が廉頗から逃げ回っているのは、国家の急を先にして、私情を後にしているからだ」
やがて、この話が噂となり、廉頗の聞くところとなった。相如の国を思い私を後にする心にすっかり恥じ入った廉頗は、人を取り成して相如の門の前に来た。相如は廉頗が会いに来たというと断ろうとしたが、門前にいると聞き、会わずに帰すわけにもいくまいと、門の前に赴いた。すると何ということか。廉頗は半裸の上、茨の鞭を背負って地に伏しているではないか。

ところで、中国には中国の礼儀や常識というものがある。その中に、人というものは、服を着て、冠をかぶっていてこそ人間という常識がある。かの孔子の弟子の子路は、二人の暴漢に襲われ致命傷を負って地に倒れ伏したとき、紐が切れて落ちた冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結び、「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」と絶叫して死んだという。我が朝の人は、何かにつけて裸になりたがるが、中国では服を着ず、冠をかぶらない者は、人間とはみなされないのである。

裸となり、もはや人間の尊厳を失った廉頗は、門前で地に伏したまま言う。「私は賎しい生まれで、君の国を思い寛大なることが、ここに至れるを知らざるなり。どうかこの鞭で私を気の済むまで打ってもらいたい」と。相如は思わず駆け寄り、一鞭も与えないばかりか、服を着せて許したという。以後、二人は刎頚の交はりを為したという。

参考:
史記、廉頗藺相如列伝
十八史略、趙
河出書房、新十八史略

今回は疲れた。かなり多くの前提知識が必要だ。缻を打つというのも、半裸で人前に出るというのも、中国の礼儀では人とみなされないことなのだ。人ではなく、もはや種族が違うとでも言ったほうがいいかもしれない。人間とチンパンジーほどに違うとでも言おうか。この認識がなければ、この話の真の意味は分からない。

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