現在、敦盛が滝口入道に会うところまで読み進めた。気になったことをいくつか。
まず、文覚であるが、だいぶ詳しく書いてある。父は遠藤左近将監盛光、母は上西門院の北面の下﨟であり、母は南山で死亡、三歳にして父にも死別したこと、幼い頃から粗暴であったこと、十三歳にして元服して盛遠と名乗り、上西門院の北面の武士になったこと、容姿は優れぬが、武道には優れていたことなどが記されている。十八歳にして出家とある。また、袈裟御前の逸話などもある。
ただしひとつだけ、平家物語にあって、源平盛衰記に書いていないことがある。それは、文覚が荒行をするにあたって、どれだけ苦しいか試してみようと、藪のなかに臥した事である。その記述はない。
木曽殿、つまり源義仲についても、平家物語より、多少詳しく出ている。また、巴のその後については、鎌倉殿の召しにしたがって鎌倉へ行き、首を刎ねられるべきが、和田義盛のとりなしによって、女房となって、朝比奈三郎義秀を産んだともあるが、これは年代からしても怪しい話である。後世の創作であろう。
ところで、一谷の合戦で有名なのは、あの九郎義経が、鵯越を馬で落として平家の陣の裏から攻めたという話である。源平盛衰記でももちろん出てくるのだが、ひとつ面白い話がある。それはあの畠山が、いまは馬を労わるべきだといって、自ら馬を背負って降りていったということだ。それも記述をみると、どうも畠山一人で担いで降りたように読める。いくら日本の馬は小さいとはいえ、やはり二百ないしは三百キログラムほどの体重があり、一人で担ぐのは、文字通り、「人倫には非ず、誠に鬼神の所為」である。まあ実際には、畠山ほどの名のある武士ならば、従者がいたはずであり、人手があれば馬を担ぐことはできたと思われる。
ちなみに、この畠山とは、畠山庄治次郎重忠である。この人は、平家物語では大力と名が高く、例えば宇治川を渡す時に、馬から落ちて、泳いで岸までたどり着いたが、やけに体が重いと気がついてみれば、重親がしがみついており、助けてくれと懇願されたので、川の中から岸辺までブン投げたという話がある。また、義仲が落ちていく下りで、畠山は巴と組み合おうとして、弓手の鎧の袖に取り付いたところ、巴は叶わなじと、春風という名前の馬に鞭を当てた。すると鎧の袖をふつと引き切って逃れたとある。馬が強いことも確かだが、袖を抑えていた畠山もすごい。とはいえ、源平盛衰記のこの部分は、巴が鬼神の如き振る舞いの記述であって、畠山の大力については、一切触れていない。源平盛衰記では、これを見て畠山が逃げ出したと書いてある。源平盛衰記の記述では、巴の事ばかり書いているので、ここで畠山がいかに大力であるかということには、普通気がつかないはずだ。言われてみればその通りではあるのだが。Wikipediaの項目にある参考文献にでも書いてあるのだろうか。
さて、源平盛衰記も残すところ三百ページほど。
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