文覚が非常に気になる。しかし、真偽の疑わしい話しか残っていない。特に、平家物語の後はどうなっていたのか、さっぱりわからない。
とりあえず、今分かっている限りでは、頼朝の後ろ盾で、後白河院に神護寺を初めとした諸寺を再建立させているが、正治元年(AD1199)に頼朝が死んでからは、後ろ盾を失い、反幕府派の源通親の讒奏にあって、佐渡に流された。佐渡には真禅寺という寺があり、文覚はここで荒行をしていたらしい。佐渡に流されたのは正治元年(AD1199)で、建仁二年(AD1202)には赦免されて教徒に戻っている。
京都に戻ってこれたものの、こんどは後鳥羽上皇に謀反があると言われて、元久二年(AD1205)に対馬に流されるが、たどり着くことなく、途中で死んだらしい。
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