2009-05-27

擬古文に対する考え方が変わった

ここしばらく、漢文を読んでいるが、擬古文に関する考え方が、だいぶ変わった。以前は、高山樗牛はどうしてあの若さであんな文章を書けたものかと不思議がっていたが、今では、どうして、夏目漱石は漢文を使わずに小説を書けたのだろうと、疑問に思っている。あるいは、二葉亭四迷が口語で浮雲を書き、森鴎外が口語でファウストを訳したというのも、いったいどうやったのだろうと思う。

というのも、漢文自体は、それほど難しいものではない。模範的な形は、だいたい決まっていて、それに当てはめれば、文章が書ける。そして、漢文を訓読すれば、それは日本語っぽく読める。そんな便利な言語を、どうやったら忘れ去って、使いにくい口語で書けたのだろう。

一般曹候補生の試験が終わって、数学の勉強より解放されてよりここ数日、これからも数学の勉強を続けようとは思っているものの、すこし脱線して、英訳のエッダを読んでいた。読むことしばらくにして、ふと思った。もしこれを日本語に訳そうとしたら、どうなるであろうか、と。少し頭の中で考えてみたが、思い浮かんだのは、訓読された漢文もどきの日本語であった。まだほんのわずかしか学んでいないのに、もうここまで思い浮かぶのだとしたら、史記や左傳を読めば、かなり漢文が書けるようになるのではないか。こうした大変便利なものがあるのに、あえて捨てて口語で書くのは、大変だったに違いない。

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