2009-06-01

少年易老学難成は朱熹の作ではなかった

少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声

上の漢詩は、日本人なら誰でも知っている有名なものである。何故ならば、国語教科書に載っているからだ。さっき、ふとこの漢詩を目にする機会があった。そこでは、題を「偶成」とし、作者を朱熹としている。

朱熹だと。あのイデオロギーを振り回し、既存の文章とカルト的な思想をごっちゃ煮にしたアホくさい学問を作り出した、あのマヌケのことか。詩の巧拙は知らず、朱熹ならば、以下のように考えるはずである。

「少年老い易く、学成り難し、か。確かにそうだ。むしろ、学成る能はずと言った方がよい。従って、知った振りをして適当に口からでまかせを言うに限る。第一、だれもまともに理解していないのだから、バレる心配はないだろう」と。

日本の国語教育はクソであるとは、常々思っていたが、まさかここまでとは思いもよらなかった。そう思って、この詩をググると、なんと、この詩の作者は、朱熹ではないという説があるそうだ。

まず、そもそも朱熹の著作や詩集の中に、この詩は存在しない。では、この詩の初出はどこかというと、明治の国語教科書である。そこでは、作者は朱熹としている。それ以前はどうかというと、なにやらおかしなことになってくる。

まず、滑稽詩文と称するものに、「寄小人」という題、作者無表記で載せられている。これは禅僧のおかしな話をまとめたもので、文脈から解釈すると、

少年老い易く、学成り難し。たしかにそうだ。だから若いうちは、勉強なんてせずに、男色に耽るべきだ

などという、とんでもない内容になってしまう。まずい。これでは、学校で全校生徒を前にして講演する際に、
「エー、漢詩に、少年老い易く、学成り難しと言いますが」
などと、切り出した日には、
「ですから、どうせ学を極めることなど、もとより不可能なわけでして、最初から学ばざるにしくはないのであります。したがって、不純異性交遊、これを大いに行うべしというわけですな。いや、何も異性に限る必要はないわけでして、事に皆さん男色をたしなみますかな。皆さん方の多くはノンケでありましょうが、是非ともホモセックスの経験をお持ちになった方がよい。かの水戸光圀公も、少年のケツを掘ることに関しては、一流だったと聞いております。つきましては、やらないか?」
と、結ばなければならない。これは由々しき事態だ。

また、更に古い書物をひもとくと、さらにさかのぼることが出来、そこでは、一般的な解釈と同じだが、ただし作者は日本人らしい。つまり、初めこの詩が作られ、それが後に、転じて、滑稽詩として用いられたのだとか。

何にせよ、この詩が朱熹の作とされている理由は、明治になって国語教科書を作る際に、当時の教科書の作成者が、どこかからか、この詩を持ってきて、教訓臭い解釈にして、その詩の高尚ならしめるために、作者を、当時最も尊敬されていた、朱子に設定したらしい。

なんともまあ。

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