平家物語の諸本では、文覚は劇的な活躍をしている。
平家物語の諸本の一致して伝える所では、治承三年(1179)三月日に、文覚は後白河院に寄進を強訴して、伊豆に流されている。頼朝の挙兵が治承四年なので、ものすごく早い展開だ。流されてまもなく、文覚は頼朝と会い、説得し、京都―伊豆間を往復し、平氏追討の院宣を取ってくるという筋書きになっている。
もちろん、史実は異なる。実際の文覚の勧進は、玉葉によれば、承安三年(1173)四月二十九日の事である。頼朝の挙兵までには、まだ七年もの長い時間がある。平家物語は、物語の展開を劇的に見せようと、このような日付の改竄を、頻繁に行っているのである。さらに、文覚は治承二年に、勅勘を解かれて帰京しているのである。理由は、建礼門院が安徳天皇を出産したことによる大赦によってだとされている。だから、愚管抄にある、「四年同ジ伊豆國ニテ朝夕ニ頼朝ニ馴タリケル」とあるのは、間違ってはいないと思う。承安三年に流されたのなら、四年ではなくて、五年かも知れないが。
さて、愚管抄を信じるとするならば、文覚自身が、頼朝に院宣を渡したなどというのは、ヒガ事であるという。ただし、愚管抄には、文覚が空気を読んで、後ろ押ししたなどという事が書いてある。「ソノ文覚、サカシキ事ドモヲ、仰モナケレドモ、上下ノ御ノ内ヲサグリツヽ、イヽタリケルナリ」
ただし、頼朝と文覚の間は、結構深かったようで、頼朝は木曽殿を勘発するのに、文覚を差し向けていたりする。玉葉寿永二年九月二十五日に、「伝聞、頼朝以文覚上人令勘発義仲等云々」とある。
ところで、この辺りの事情を考察するにあたって、玉葉という重要な資料がある。玉葉の筆者である九条兼実は、愚管抄の筆者とされている慈円の、実の弟にあたる。原・平家物語の筆者とされている、信濃前司行長は、九条兼実の家来で、慈円の弟子だったというから、平家物語、愚管抄、玉葉の関係は、驚くほど狭い話である。
玉葉もいずれ読もうと思っているが、愚管抄より読みにくい。有職の公家の日記なので、当然のことながら、変体漢文で書かれている。平家物語や愚管抄の好い所は、仮名文字で書かれていることなのだ。だから、平家物語や愚管抄ならば、誰でも読めるが、玉葉は、誰でもと言うわけにはいかない。漢文を読むのは、やはり仮名文字より面倒だ。
それに、玉葉を手に入れるのに、また古本屋を巡らなければならないだろう。しかし、もし玉葉が京都の古本屋に売っていなかったら、詐欺に近い。源平盛衰記が売っていない時点で、十分、京都の古本屋の事情は悲惨なのだが。
とりあえずさしあたっては、愚管抄を読破しなければ。
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