ある日本語を学んでいる外人から、こんな質問を受けた。
本当に日本語は常に否定疑問文を論理的に答えるのか? 例えば、「多くない?」って聞かれたときはどう答えるんだ。
はて、これはどうしたことか。私は今まで、日本語は常に否定疑問文を論理的に答えると考えていた。しかし、「多くない?」という疑問文に対しては、目的物が多くなかった場合、
うん、多くないね。
いや、多くないよ。
と、両方答えることが可能であるし、目的物が、多い場合にも、やはり同様に、二種類の答え方が可能だ。
はて、これはどうしたことだろう。常日頃、「英語はなんて非論理的な言語だ。日本語を見よ」と笑っていたのが、急に恥ずかしくなってきた。
ところが、どうも思うに、「多くない?」という文章は、私の感覚からすると、肯定疑問文にも、否定疑問文にも、受け取れるのだ。事実、英語のように非論理的に答える場合、私は肯定疑問文だと解釈している。とすれば、日本語の否定疑問文における論理性は崩れないことになる。
しかし、なぜ肯定否定の両方の解釈が可能なのだろうか。「多くない!」と言う場合、これは確実に否定である。しかし、疑問文に使ったときは、肯定とも否定とも取れる不思議な印象を受ける。
少し考えた結果、これは、「多く + 無い」ではなく、「多く + な + い」という文法なのではないかと考えた。日本語の文法規則には、色々と諸説あって難しいが、とりあえず手持ちの学研国文法(初版が昭和39年という、かなり古い本である)を引いてみると、果たして、な、い、という助詞が載っていた。
助詞「な」には、三種類あるが、感動、驚嘆の意をあらわす種類であろう。
助詞「い」は、念を押す意を表すとされている。
君の頭は確かかい。
夏目漱石「それから」
父さんが来たを思って、好い気になって泣くない。
島崎藤村「嵐」
島崎藤村の例は、最近は使わないし、どうも今問題の文法とは違うような気がするが、とりあえず、助詞「な + い」という形はあり得る。
つまり、「多くない?」とは、通常の文をイントネーションを上げ調子にして疑問文にする、「多く + 無い ?」と、2個の助詞によって構成される、「多く + ない + い ?」と、両方の解釈が可能であり、それによって、肯定とも否定とも取れる印象をあたえるのだろうと考えた。
しかし、また外人の曰く、「でも、助詞「い」は、単に念を押す程度の意味しか持たないから、省略しても意味が通じるようになるんじゃないか。「多くな」だけで、本当に意味を成すのか?」
そう言われてみれば、どうもこの解釈は怪しい。「多くな?」という文は成立しない事もないだろうが(それってどんな感じ? 例えば多くな?)、やはり、どうも難しい。
どうにもうまい解釈が出てこない。
追記:だいぶ前から一方的にGoogle Readerで購読していた人が、この問題を考えてくれた。
「ない」という言葉は、打ち消し、もしくは念押しのどちらの意味にもとれるので、結果として、文章が肯定なのか否定なのか、どちらにも解釈できるという説である。この解釈の方がよさそうだ。
単純否定疑問文と反語否定疑問文(そんなのあるのかな?)なんじゃないですかね。
ReplyDelete冗長に言うと「多いんじゃありませんか」と言っても同じ構造ですし。