2012-06-03

聖イグヌ(GNU)シアスの説教

リチャード・ストールマンによる聖イグヌシアスの説教は、多少の差異があるが、概ね同じである。ここでは、一般的な説教を翻訳する。

我こそは聖イグヌ(GNU)シアスである。Emacs教会より派遣さる。我、ここに我が子らのコンピューターを祝福す。

Emacsはそのはじめ、テキストエディターとして始まりしが、多くのユーザーにとりては人生なりき。如何となれば、Emacsを終了することなく、すべての作業を行えるがためなり。ある者、ニュースグループalt.religion.emacsを始めしより、宗教となれり。今日、我々は競合関係にある異教徒のエディターと争えり。また、聖人あり。幸いにして神はなし。神の代わりに、我らはエディターを崇拝す。

Emacs教会の信者となるためには、汝ら戒律を唱えるべし。

曰く、「GNUの他にはシステムなく、Linuxはそのカーネルのひとつに過ぎぬ」と。

汝、ハッカーになりたれば、foobarミツワーなる神聖なる儀式あり。その次第、集いたるハッカーの前に立ち、神聖なるシステムのソースコードを読経するものなり。

また、Emacs処女なるものあり。これは、いまだEmacsに触れざる者のことなり。Emacs処女なる者らに、その処女性を失う機会を提供するは、祝福されたる行いなり。

Emacs教会は、あえて言及せぬ他の宗教にくらぶれば、利点多し。Emacs教会の聖人たらんとするに、非妻帯の戒なし。故に、汝ら信者たらんと欲すれば、すなわち信者たる資格を得る。

されど、汝ら純潔を守るべき事あり。汝ら、もし、邪悪な制限ソフトウェアのインストールされたるコンピューターを所有して支配下に置きし時、かかるコンピューターに、神聖にして完全なる(holy/wholly)自由なオペレーティングシステムをインストールし、その上に自由なるソフトウェアのみをインストールすべし。この誓いを守りて貫き通したれば、いずれ汝ら聖人となり、その頭に光背を頂くに至らん。しかし、これまったく汝ら光背を見つけたればなり。如何となれば、これすでに製造されること絶えてなければなり。

時に、汝ら問いて曰く、「Emacs教会に身を置きながら、viなるテキストエディターを使うことは罪なるか」と。いかにも、vi vi viは獣の数字なるが、自由な実装のviを使いたるときは、罪ならず。そは贖罪なり。

時に、汝ら問いて曰く、「その光背は、まことには古いコンピューターディスクならん」と。これはコンピューターディスクにあらず。我が光背なり。されど、これは前世においてはコンピューターディスクたりし。感謝。

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