最近気になる声がある。「最近の広告にはわいせつ物が増えた。けしからん」という声である。この声は非常に危険である。
なぜ危険なのかというと、我が国では、刑法175条により、わいせつ物の頒布や陳列、頒布や陳列を目的とした所持は違法だからだ。
過去にも多数の芸術作品が、わいせつであるとして不当に撤去され、作者は罰せられている。実に、我が国は表現の自由を有せざる劣等国である。表現の自由が認められない世界では、思想の自由もなくなる。
したがって、我々はわいせつ性の判定に、もっと慎重になるべきである。なぜならば、一度わいせつ性が認められるや、その表現は違法になるからだ。表現を規制する法律を動かす便利な理由を自ら作り出しているのである。
さて、件の広告とやらは如何。幸い、あの有名な高木浩光氏が、スクリーンショット付きで実例を上げている。
togetter をスマホで見ると、常にこの手の広告。もうtogetter は使えないな。ボイコットしようず。 twitter.com/HiromitsuTakag…
— Hiromitsu Takagi (@HiromitsuTakagi) July 15, 2012
氏はこの画像をもって、「この手の広告」と表現している。抜け目のないやり方だ。直接にわいせつであるとは言っていない。ただし、前後のつぶやきを見るに、
「エロ広告」改め「性暴力広告」と言うべき。
— Hiromitsu Takagi (@HiromitsuTakagi) July 16, 2012
やはり氏もわいせつ性があると考えているようである。「エロ」といい、「性暴力」といい、名前を変えただけで、本質は「わいせつ」であることに変わりはない。わいせつ性の判定はそう軽々しく行われてはならない。なぜならば、先に述べたように、わいせつ物の頒布や陳列は違法であり、頒布や陳列を目的とした所持も違法だからだ。上記のスクリーンショットを見る限り、私には、頒布や陳列を違法としなければならないようなわいせつな表現であるとは思えない。単に人の手で創作した文字と絵である。
ある人の手によって無から創作された文字や絵、あるいは連続的な絵による映画という表現が、わいせつ物にあたるというのは、非常に危険だ。チャタレー事件や、松文館裁判のように、完全に創作した文章や絵すら規制される現状は、危険にもほどがある。創作した文章や絵が性暴力であるというのはどういう見解だろうか。殺人を描写した文章や絵は殺人なのだろうか。
この現状をこのまま放置すると、表現の自主規制が進む。その世界は、当局による検閲と実質変わらない世界になる。市民が隣人の思想犯罪を監視しあう社会は、全体主義者の思うつぼである。全体主義は、何も独裁者が存在しなくても成立するのだ。あらゆる表現は暗黙的にわいせつ物であると解釈されうるようになり、取り締まられないのは、全体主義の監視社会や権力者に異議を唱えなかったり、運が良かったりするだけになる。いつでも誰でも、任意の表現によって違法に問えるという状況は危険だ。我々は表現と思想の自由を守らなければならない。
ただし、人によって見たくない表現というものはある。たとえば、人体の解剖を物に固定した写真や録画は、医学のためには重要であっても、私は見たいとは思わない。同様に、源氏物語という眠気を誘う妄想全開で頭の悪くなりそうな文章は、当時のかな文学の研究のためには重要であっても、読みたいとは思わない。これは、「私」がそう思うだけであって、この表現を法律によって禁止すべきではない。
さて、件の広告はどのように表示されているのか。ポスターとして公共の場所に貼られているのではない。利用者の所有する、あるいは支配下にあるコンピューターが表示しているのである。サーバーがコンピューターにビット列を送信し、コンピューターはそのビット列を解釈して、広告として表示するのである。利用者が所有し、あるいは支配下にあるコンピューターが表示を行なっているのだから、利用者自身が表示の禁止を行うべきである。
広告を表示させないための機能拡張は、多くの自由な実装のブラウザーに存在する。もし、そのような拡張が実装できない、あるいは改変できないブラウザーを使っているのであれば、そのブラウザーは不自由であり、利用者の自由を不当に制限しているソフトウェアである。不快な広告よりもむしろ、そのような邪悪で非人道的なソフトウェアこそボイコットすべきだ。
ブラウザーと区別すべきかどうかはわからないが、ネイティブコードやそれに類するバイトコードの、あまり有名ではないソフトウェアが、内部で独自に広告を表示していることもある。これは、ソフトウェアを書き換えることで対処すべきである。もし、ソフトウェアの変更が、著作権によって保護されていたり、あるいはソースコードやコンパイル方法が提供されていないことにより、困難であるならば、そのソフトウェアは、利用者にとって不自由であり制限的である。これも、我々は邪悪で非人道的だという理由でボイコットしなければならない。
教訓は、不自由なコンピューターやソフトウェアは所有、または支配下においてはならないということだ。
えーと、だからエロ広告表示するサイトを「利用者にとって不自由であり制限的である。これも、我々は邪悪で非人道的だという理由でボイコット」しようという話ですよね?
ReplyDeleteいえいえ、ウェブサイトは(Javascriptの部分などを除く)データです。プログラムではありません。adblockをインストールすれば良いです。
ReplyDeleteインターネットが公共の場でないといつから錯覚していた?誰からでもアクセスできる=パブリックなものです。
ReplyDelete“インターネットが公共の場でないといつから錯覚していた?誰からでもアクセスできる=パブリックなものです”
ReplyDeleteじゃあ本屋の本も公共の場かー エロ本大変だな
>我々はわいせつ性の判定に、もっと慎重になるべきである。なぜならば、一度わいせつ性が認められるや、その表現は違法になるからだ。
ReplyDelete「我々」や高木先生がわいせつだと思っても、違法にはなりません。
国家以外の中間団体による自主規制が問題だという指摘はその通りだと思いますが、それと上記の違法性の話は何ら関係ありません。
この人は、刑法上の、もっと正確には"わいせつ物頒布罪におけるわいせつ概念(それは法の下の平等に基づいて客観的画一的であるべきです)"が、私達が日常使用する、それも個々人で微妙に異なる「わいせつ」という単語と完全に一致するものだという仮定を作り上げて、勝手に暴走している気がしますね。
ReplyDelete実際、刑法上の「わいせつ」と俺らが思う「エロい」は同義なんだが。実際松文館裁判では、編集長が「エロいと思った」ことを理由にして有罪になってるんだよ。
ReplyDeleteただ、一般人がエロいと思うか、クソ警察やクソ裁判官がエロいと思うかは別問題。一般人が違法と思わなくても逮捕するし、一般人が違法と思っても逮捕しない。それがゴミ警察クオリティ。
日本の殆どのエロ絵はそもそも違法ですよ。知ってた?