エクストリーム・ボート
水銀の湖の上でボートをこぐとどうなるの? 臭素は? 液体ガリウムは? 液体タングステンは 液体窒素は? 液体ヘリウムは?
–Nicholas Aron
一つづつみていくことにしよう。
臭素と水銀は、室温で液体になる唯一の純粋な元素だ。
水銀の海の上でボートをこぐのは、おそらく可能だ。
水銀はとても密度が高いので、鋼鉄球すら水面に浮かぶほどだ。
ボートは浮きすぎて、水銀にあまり沈まないかも知れないので、パドルに体重をかけなければ水面下に棹させないかもしれない。
結論としては、ちょっと難しいかも知れないし、あまり早く焦げないかも知れないが、おそらく水銀上でボートをこぐのは可能だろう。
読者は水かけ合戦をしないほうがよい。
臭素は水とほぼ同じ密度を持っている。そのため、標準的な手こぎボートは、理論的には、浮かぶはずだ。
ただし、臭素は悲惨だ。まず第一に、臭いがひどい。臭素(bromine)という名前は、古代ギリシャ語の"brōmos"から来ていて、意味は「臭う」だ。それだけではなく、臭素は、多くの物質と激しく反応する。読者はアルミニウム製のボートを使うのはやめておいたほうがよい。
これでもまだやめる気にならないのであれば、臭素の物質安全データシートには以下の文面があることを記しておこう。
- 深刻な火傷及びに潰瘍
- 消化器官の穿孔
- 永続的な角膜混濁
- 空間識失調、不安感、失望感、筋肉協調運動不能、情緒不安定
- 血を伴う下痢
読者は臭素の湖で水かけ合戦をしないほうがよい。
液体ガリウムは不思議な物質だ。ガリウムはバターのように、室温の少し上の温度で溶ける。手のひらの上で長時間保持することはできない。
それなりの密度はあるが、水銀ほどの密度はないので、ボートをこぐのは水銀よりは簡単だろう。
ただし、これも、アルミニウム製のボートはやめておいたほうが良い。なぜならば、アルミニウムは、その他の多くの金属と同じく、あたかもスポンジが水を吸い込むように、ガリウムを吸収してしまうからだ。ガリウムはアルミニウムの中に急激に広がり、その化学的特性を変えてしまう。変化したアルミニウムは、とても脆く、湿った紙のようにちぎることができる。
水銀とガリウムに共通の性質で、アルミニウムを破壊してしまうのだ。
「ガリウムの湖でアルミニウムのボートを漕ぎだしちゃいけないよ」とは、筆者の婆ちゃんがよく言っていたことだ(筆者の祖母はすこし変わっていたのだ)
液体タングステンは難しい。
タングステンはどの元素よりも融点が高い。これはつまり、我々はその特性について、あまりよく知らないということである。特性を検証できない理由は、すこし馬鹿げたように思えるかも知れないが、液体タングステンを保持できる容器がないためである。並大抵の容器では、タングステンが溶けるより先に、容器を構成する物質が溶けてしまう。炭化タンタルハフニウムのようなごく一部の化合物のみが、わずかに高い融点を持つだけだ。ただ、そのような化合物で液体タングステン用の容器を作成できた者はいない。
液体タングステンがどのくらい熱いのかということを実感させるために、その具体的な融点の温度(3422℃)を書くということもできるが、以下のように説明したほうがわかりやすいだろう。
液体タングステンはあまりにも熱いため。もし溶岩に滴下したならば、溶岩はタングステンを凍らせてしまうのだ。
言うまでもなく、もし読者が液体タングステンの海にボートで漕ぎだしたならば、読者とボートは両方共、瞬時に発火炎上するだろう。
液体窒素はとても冷たい。
液体ヘリウムはさらに冷たいが、どちらも絶対零度に近く、南極の最低温度よりも下だ。そのため、ボートで漕ぎだす目的のためには、温度の違いは瑣末なものだ、。
液体窒素の安全性に関するDartmouth工業ページには、以下の文面が並ぶ
- 有機物と激しく反応
- 爆発する
- 室内の酸素を減らす
- 激しい着衣の炎上
- 前兆なしの窒息
液体窒素は、水に近い密度を持っている。そのため、手こぎボートは浮かぶだろう。ただし、読者は長時間生存できないだろう。
もし、実験開始時点で、窒素の上の空気が室温であったならば、急速に冷却され、読者とボートは、空気が凝縮された濃い霧に覆われて窒息するだろう。(これは液体窒素をそそいだ時に発生する湯気と同じ効果である)。凝縮は凍結を引き起こし、読者をボートを急速に雪に埋もれさせるだろう。
暖かい空気は、窒素の表面を蒸発させる。これは湖面の酸素を減少させ、読者は窒息するだろう。
もし、空気(あるいは窒素)が、蒸発を防ぐほど十分に冷たいのであれば、読者は低体温症により、死亡するだろう。
液体ヘリウムはさらにひどい。
まず、液体ヘリウムは水の8分の1しか密度がないため、自重を支えるために、読者のボートは8倍の大きさを有していなければならない。
「俺らにはでっかい船が必要だ」
「まあでも、サメは問題にならんよな」ただ、ヘリウムは厄介だ。もし、2度ケルビン以下に冷却された場合、超流動になる。これには不思議な特性がある。毛細管現象により、容器の壁を登り上がるのだ。
約秒速20cmほどで登るので、30秒以内に、ボートの底に液体ヘリウムがたまり始める。
液体窒素の時と同じく、低体温症により急速な死をもたらす。
ひとつ慰めになるとすれば、横たわって死につつある中、読者はとても奇妙な現象を観察することになるだろう。
読者の体を急速に覆いつつある超流動のヘリウムの層は、ほとんどの物質と同じく、音波を伝える。しかし、液体ヘリウムには全く別の形の波、ヘリウムの層をゆっくり伝わる波があるのだ。これは超流動でしか観測されていないもので、不思議で詩的な、第三の音という名前が与えられている。
読者の鼓膜はもはや機能しておらず、そもそもこの種類の振動を検出することはできないだろうが、巨大なボートの床の上で凍てついて死につつある読者の耳には、人間が未だかつて聞いたことのない、第三の音で満たされていることであろう。
これは、少なくとも、とってもクールだ。
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