2008-09-21

源平盛衰記の李陵に対する記述が気に食わん

源平盛衰記では、康頼の卒塔婆に書かれた歌に関連して、歌の力を示す例として、漢の武帝の朝の李陵と蘇武の引き合いに出している。ご存知のとおり、蘇部は渡り鳥の足に歌を結わきつけて、漢まで飛ばしたという伝説が残っているからだ。源平盛衰記に曰く。

漢の武帝は胡国の匈奴を攻めるため、李陵を大将軍、蘇部を副将軍として遠征させた。百城のうち九十九を落とし、最後の城に討ち入ってみると、匈奴はみな逃げ出していて、美人だけがいた。李陵が美人にうつつを抜かしているうちに、気がつくと匈奴の兵に囲まれていた。李陵は匈奴に下って、その臣下となったが、蘇武は何と言われようと匈奴に仕える事はなかった。漢王はこの事を伝え聞いて、「蘇部は功臣也、李陵は二心有とて、父が死骸を掘り起こし、老母兄弟罪せらる」

さて、史実はどうかというと、まず李陵が匈奴を攻めるために、一旅団を率いて胡国入りしたのは事実だが、大将軍ではなく、先に攻め込んだ李広利を助けるためだった。また蘇部は、李陵が降伏した後に、和平の使節団の一員として胡国に入ったとされている。そこで、あわよくば単于を暗殺しようと計画していたのがばれて、捕まったのだ。

更に疑問なのが、城だ。遊牧民に城というのもおかしな話だ。源平盛衰記では、「狄城」としているので、あるいはテントの事を指しているのかもしれないが、やはり解せない。

美人にうつつを抜かしている間にやられるというのも、いかにも支那的と言わざるを得ない。中島敦の言葉を借りると、「誠にいかにも古代支那式な苦肉の策」といったところだ。

さて、李陵が二心ある不忠の臣であったかどうかとなると、定かではない。しかし、中島敦的史観が好きな私としては、やはり、支那式のうわべだけ取り繕い常に讒言に脅える世界が嫌になったと思いたい。

参考:中島敦 李陵

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