高校生の頃、余は少しくライトノベルに傾斜した。その頃の余は、純文学に辟易としており、その他の現代小説にも、興味を見いだせず、実際問題として、読むべき小説に飢えていた。そこで余は、森鴎外を読んだり、英文学に逃げたり、ゲーテに傾斜したりして、多感な高校時代をやり過ごしていたのである。そんな中、ふと何気なく読んだライトノベルには、新しい風を感じた。
最初は、角川スニーカー文庫とか、富士見ファンタジア文庫を好んで読んでいたのだが、次第にそれすら古くさく感じるようになり、電撃文庫に移った。電撃文庫には、確かに新風を感じた。二ヶ月に一回刊行される電撃HPも、毎回欠かさず買っていた。
ところが途中から、どうも、ラノベの傾向が変わってきた。ラノベに限らず、マンガやアニメも、似たような傾向が認められた。もちろん、以前からその様な傾向は、うすうす感づいていた。すなわち、皆、異常に発達した、偉大なる眼球を備えた婦女子の図画を使っているのである。図画の眼球が非現実的に大きいというのは、何も、今に始まった話ではない。どこかの研究によると、人間という物は、顔に対する眼球の比率の大小で、対象が可愛いかどうかを判断するとも結論していたと記憶している。実際、余とても、眼球の大きい女性の絵は、なるほど確かに、悪くはない。しかし、こう皆一様に巨大では、キャラクターの識別が困難である。甚だしきに至っては、顔の三分の一から二分の一まで、眼球が占めるという図画まで出現し、余を著しく混乱せしめた。
余の困惑をよそにして、世間は、猫も杓子も、偉大なる眼球を有する女性キャラクターを使い、ネット上のスラングであった「萌え」などという呼称も一般化し、ついに、日本のサブカルチャーは、諸人をして、眼球の大小の如何を以て、その作品の優劣が決定せられるまでに至ったのである。
余はこの傾向に、一種の不気味さを覚えた。書店にて、ラノベの新刊コーナーに目を転ずると、どの本も皆、表紙に巨大な眼球を有する少女の顔面を印刷しているのである。ここまで画一的な人物描画の、何が芸術の本来の面目か。余は甚だ疑問である。
もちろん、図画の歴史を省みるに、およそ日本の人物描画には、皆この傾向が認められる。昔の人物像を見ても、実に画一的な描き方をしている。所謂、笑い絵に至っても、然り。つまり、画一的に人物を描くというのは、日本人に古来より存在する伝統文化なのであろうか。
爾来、余はラノベを読んでおらぬ。最近は、古典を読み始め、そろそろ、平家物語の諸本の差異を論ずるまでに至っている。書物には困っておらぬ。有名な古典だけに限定しても、すでに、読み切れぬほどの古典が存する。しかし、余はまだ、現代小説を諦めてはおらぬ。何時の日か、現在の奇妙な流行が廃れた頃、まともな小説が出てくると信じておる。嗚呼、現代小説、何為れぞかくはなりはてるや。
追記:余が中学生の頃に傾斜せし太宰治は如何に論断せられるや。
太宰治 小説の面白さ
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