すでに、許諾なき著作物のダウンロードは違法である。いまここに、違法ダウンロードに罰則を設けようという動きがある。これは自由な文化にどう影響するのか。思うに、法律上効力のある明示的なライセンスによって保証された自由な文化は、これによって勢いを増すのではないかと思う。
著作権は、もともと、複製のための権利として始まった。それも、ただの複製ではなくて、印刷屋による複製を規制するための法として始まったのだ。日本では、活版印刷以前にも版木による大量印刷が主流だったため、活版印刷の技術の登場による、価値観の革新的な変更は、実感しづらい。しかし、大量に印刷できる技術、すなわち用意に複製できる技術の登場は、これまでの常識を覆してしまったのだ。
大量印刷技術の発明以前の西洋では、複製はとても手間のかかる作業であった。本を複製するには、まるで印刷されたかのように精密に文字を書き写す職人の手に頼らなければならなかった。時間もかかる。それが、活字による印刷となり、既存の活字を組み合わせれば、一度に大量に印刷できるようになった。これにより、複製ははるかに容易になった。
複製が容易になると、複製を独占的に保護しようという動きが出てきた。どの印刷屋も、せっかく印刷した本を、他の印刷屋に容易に複製してほしくはなかったからだ。そこで、限定された期間の間、複製の独占的な権利を認める法が作られた。これは最初、印刷屋による複製を規制する法であった。文面上の定義はどうあれ、手書きの複製というのは、黙認されてきた。保護期間は、当初十数年だったのが、次第に伸ばされて、ついに死後70年とか、あるいは公表後95年といった、とんでもなく長い保護期間になった。しかも、保護期間は、将来ますます伸ばされるであろう。つまり、人類は半永久的な著作権の保護期間を制定したのだ。
我々は全盛期の著作物を見るに、他人の著作物の無断利用というのは、極めて多い。これは、そもそも著作権の保護する範囲が、今日ほど拡大されていなかったからだ。そういう無断利用で稼いできた連中が、今著作権の保護を叫ぶとは不思議な話だが、まあ、今更言っても始まらない。
著作権は、著作物のある種の利用を制限するものである。ある種の利用に関して、著作者に与えられる期間を限定した独占的な権利である。ある種の権利とは、複製の権利から発展した。そのため、ほとんどの著作権は、複製の特殊な場合である。たとえば翻案というのは特殊な複製だし、公衆送信も複製の一種である。著作権というのは、複製をする権利であると言える。
しかし、著作権では、複製物を受け取る権利というものはない。あるのは、複製物を譲渡、または映画の場合頒布する権利である。複製物を受け取る権利というものはなかった。あるのは、複製物を与える権利だったからだ。著作権は印刷屋の規制として発展したのだから、複製を行う権利が中心だった。複製を受け取る権利というのは、これまで考えて来なかったし、そもそも本来、考慮の外にあることだったのだ。
確かに、ダウンロードというには、メモリやディスク上に複製を行うものである。ではこれは複製の制限を受けるのか。従来、このような複製は、明確な法律や判例の有無はともかく、フェアユーズとか私的利用の範囲であるとみなされてきた。それが変わるのだ。ダウンロードが複製とみなされ、違法になるのだ。これは拡大解釈され、やがて、複製物を受け取る権利へと発展するだろう。
これからは、複製物を受け取る権利を意識しなければない。複製物を受け取るには、明示的な許諾が必要になる時代が来る。これは、シェアアライクやコピーレフトなライセンスにとって、何を意味するのか。複製物を受け取る際、ライセンスへの同意を迫れるのである。
契約、というのは非常に弱いものである。たしかに、人を契約で縛り付けることはできる。しかし、法律を超えることはできないので、契約に同意した複製物を得た人間が、それを他人に譲渡することは防げない。なぜならば、譲渡権は、許諾を受けて譲渡が行われた後に、その効力がなくなってしまうからだ。これがあるために、我々は一度購入して、つまり著作権者の認める正規の方法で譲渡を受けた複製物を、中古として売ることができる。
シェアアライクやコピーレフトなライセンスがどのように機能しているかというと、決して消え去ったりはしない権利、すなわち複製だとか翻案だとかにかかる権利の許諾を与える契約として機能している。許諾を得るには、契約に同意しなければならない。契約は、派生物が同じライセンスの元に公開されることを要求している。これを「感染」というのは正しくない認識である。なぜならば、他の多くの不自由な著作物でも、許諾には金銭を必要とする。また、ある不自由な著作物は、そもそも複製や翻案の許諾を出さない。シェアアライクやコピーレフトなライセンスを「感染」というのであれば、あらゆる許諾の必要で消失しない権利は、「感染」である。
つまり、シェアライクやコピーレフトなライセンスは、決して消失しない、許諾の必要な権利の許諾と引き換えに、契約への同意を求めるライセンスである。これは、他の不自由で制限ある著作物の利用許諾と、何ら変わらない。違うのは、シェアライクやコピーレフトなライセンスは、派生物の自由を積極的に保証させる契約となっていることだ。
だから、著作権では保護されない利用に関しては、ライセンスは効力を発揮しない。なぜならば、そのような権利が認められていないので、契約に同意せずとも利用できてしまう。その状況では、わざわざ契約してくれる人間などいるわけがないし、法律による明確な許諾の必要のない利用に関しては、契約違反で訴えるのは難しい。何故ならば、利用者はたいてい、「おれはそんな契約に同意していなかったし、そもそも契約文など読んですらいなかったし、利用する際に契約文も提示されなかった」などと主張して、逃げてしまうからである。
しかし、違法ダウンロードは複製とみなされるようになる現代では、事情が違ってくる。ダウンロードは複製であるならば、際限ない許諾が必要になる。複製の権利は消え去ることがないからだ。つまり、積極的に自由を保証するライセンスを、ダウンロード違法化の新時代の法律に合うように設計すれば、ダウンロードする際に契約への同意を求めることができる。
自由な文化の到来だ。
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