週末に、新幹線で東京から京都に向かっている途中、地震による停電で停車してしまった。あまりにも暇なので、ふとくだらないことを考えた。考えたついでに書き留めておいた。以下がその内容である。
オカンの買ってくる服はダサいという都市伝説。
世の中にはオカンの買ってくる服はダサいという都市伝説が広まっている。この都市伝説が本当に正しいのかどうか、今ここで確認する方法はない。何しろ、私は停電中の新幹線の中でこれを書いているのだ。ただし、個人的には納得できる部分もある。もちろん、服装の美しさを選ぶ能力には個人差がある。中には極めてかっこいい服を選べるオカンもいるだろう。しかし、オカン全体の平均として、オカンの選ぶ服はダサいという
ダサいとはなんだろうか。服の美しさが平均を下回っていることだとする。すると不思議だ。オカンという集合は日本の女全体の集合に比べて、ダサい服を選びやすく偏っているということになる。
少子化の進む現代とはいえ、オカン集合は日本の女集合のかなりの部分を占める。いくらバイアスのかかった選択をされた集合だからといって、オカン集合の平均が全体の平均を大きく下回るというのはどうにも納得できない。
そもそも、養子という極小数の例外を除けば、オカンとなるには生殖行為が必要になる。一般に、ヒトが生殖行為の相手を選ぶ際には、性的魅力の評価が行われる。服装の美しさも性的魅力を評価する情報の一部になるはずである。そのようなバイアスのかかった集合の平均が低いということは、つまり生殖活動をした女は、服装の美しさを選ぶ能力が低いということになる。
しかし、この考察を元に考えれば、オカンになりたい女は服装の趣味を悪くすべしということになる。それはいかにも納得がいかぬ。
ところで、子供がオカンの買ってくる服がダサいと考えるようになる時期は、早くとも10歳前後になるだろう。この期間、オカンの服装の評価に変化が起こるのだろうか。筆者の常識の範囲内で考えてみよう。
仮説1: 子供はよく服を汚す。オカンは汚れてもいい服を買ってくる。汚れてもいい服はダサい。
これは違うように思われる。汚れに強い服、汚れてもよい服といえば、主に作業服だが、平均的なオカンの買ってくる服は作業服ではない。
仮説2: オカンは金を節約するために安い服を買う。安い服は、価格を抑えるためにダサい。あるいは、ダサいがために売れない服が値下げされて投げ売られる。
仮説1よりは納得できる。果たして安い服はダサいのだろうか。凝った刺繍や印刷がされている制作費のかかる服であっても、ダサい服はある。ましてや、ダサすぎるといくら安くても売れない可能性があるため、ダサい服にも限度がある。第一、安価に製造された服は、必ずしもダサくなるものだろうか。
また、親は、個人差はあれど、子供に投資する傾向がある。教育を行わせるのも将来への投資である。一般に、多くの親は、孫の顔が見たいなどと言うものであり、そのためには子供の性的魅力を上げなければならない。ダサい服を着ていては性的魅力がない。孫の顔が見たければ、子供の性的魅力向上にも投資すべきだろう。
仮説3: オカンの服装の美しさの評価基準は親世代のものである。そのため、子世代の評価基準に照らし合わせるとダサい。
筆者の主観だが、親世代に美人であったと目されていた当時の若い女の画像を見ると、若いのにもかかわらず、オバハン臭く感じる。オバハンの評価基準はオカンである。これは、当時の化粧や服装の評価基準が現代と一致しておらず、その評価基準を受け継いだ親世代のオカンが相変わらずそのような化粧、服装をするため、若くてもオバハンだと錯覚するのであろう。
しかし、この仮説にも納得できない。というのは、オカンが服を買ってくる時代は現代である。ダサい服は売れない。現代の洋服屋は、現代の評価基準でダサくない服を売っているはずである。現代の洋服屋で服を買うのに平均を下回る美しさというのはどういうことだろうか。
いや、そもそもオカンの買ってくるダサい服は、購入されているわけである。オカンの大多数がダサい服を購入するのであれば、それはすでに多数派に属するのであって、多数派がダサいと評価されるのは一向に理解できない。
ダサいの評価基準について
ここまで考えて、もしかしたら、服の美しさの評価基準の前提が間違っているのではないかという考えに思い至った。先に筆者は、ダサいとは平均を下回る美しさであると書いた。これは間違っているのではないか。つまりこうだ。平均はダサい。平均は見慣れていてありふれているので、すでにダサいのだ。平均を上回る服のみがかっこいい服なのだ。これならば、平均的なオカンの買ってくる平均的な服がダサいという都市伝説は納得できる。
しかし、この場合、何もオカンに限る必要はない。オトンの買ってくる服も平均的にダサければ、自分で買ってくる服も平均的にダサいということになる。なぜオカンだけが槍玉に上がるのか。子供の服を買い揃えるのはオカンであるというステレオタイプな意見が、このような都市伝説を生むのだろうか、
くだらない考察を続けていると、30分ほどして電気が復旧し、新幹線が動き出した。
8 comments:
一つの仮説だが、実際に着る人間に服を試着させてみないと服がイケてるのかダサいのかを正しく評価できないのかも知れない。
例えば、一般的にダサいとされているチェックのシャツも、自分に合ったサイズの物を選ぶだけでだいぶマシに見えるらしい。しかし、オカンがチェックのシャツを買うと、試着させられないため大きめのサイズのを買ってくるため、実際に着るとダサく見え、結果的にオカンがダサい服を買ってきたということになってしまう。
単純に、オカンが「かっこいい」と思う服装が古いからなのでは
よく揶揄されているチェックシャツも昔に流行ったものですし
他人の美的感覚≠自分の美的感覚で普通自分の服を買ってくれるような他人はだいたいオカンってとこら辺じゃないっすかね? オトンは服を買ってくるって言うよりはむしろお下がりもらうイメージでダサくても昔のものだから仕方ないよねになって意識されないとか。彼女は彼女バイアスかかるしw
基本的に服は自分の顔が映えるように買うもんだと思いますよ。
洒落ているというのはすなわち気配りであると思うので
他者によって本人が気配りしてると周囲に伝えられる服を選べるのは
異能者であり職業として成立する難度かなあと。
服のデザイン性だとか何だとかそういうことは問題ではなくて、ただ単純に「オカンが買ってきた」という事実その一点を格好悪い=ダサいと感じるんだと思う。
同じ服でも、自分で選んで買うか、あるいは友人や恋人からプレゼントされたものであればまた違う感想を抱くのではないかと。
要約するとつまりダサいのは「オカンに服を買ってもらってる自分」ってことですかね?
最後の「ダサいの評価基準について」が一番しっくりきました。
補足として、自分の買った服もダサかったが、自分の失敗は記憶に残っていないだけではないかと。
自分の失敗はすぐに忘れても、他人の失敗や、されて嫌だった事はよく覚えているものです。
美的基準に上下はなく、
まず第一に、所属コミュニティが異なり周囲の美的感覚で選ぶので、ズレること。
次に、オカンが息子の服を買ってくるという事例に限定すれば、オカンの美的センスのストックは、女性向けか、夫の昔の頃のものである。したがって、息子の服を選ぶセンスは時代がずれている。
端的に言えば、昔に惚れた頃の夫の姿を、我が息子に投影するから、今の息子の望むものとは異なるものを持ってくる。
ほかに、オカンが購入する店が、いまどきの若者向けの店ではないということがあげられる。そしてそこで、自力で選ぶなり、センスのズレた店員に薦められて買うなりするから、今の若者とのズレが生ずる。
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