2008-06-19

東国原知事を殴りに行ってもいいですか

東国原知事「げんこつ条例できないか」

 宮崎県の東国原英夫知事は18日、子どもの教育に関連し「(体罰が問題視されない)げんこつ条例というものが宮崎県ではできないか」と述べ、一定の体罰は認められるべきだとの考えを示した。県庁で記者団の質問に答えた。

 東国原知事は「最近は体罰ができなくなっている中で教師の位置付けをどうするか。愛のむちという範囲ならば殴っても罰せられない、愛のむち条例とかができないか」とも述べた。

 これに先立つ県議会では、自民党議員が「昔はみんな、げんこつで教えられた」などと教育現場にはある程度の厳しさが必要と指摘。東国原知事は「大変示唆に富んでいる」と述べた。

もしそれ、教師が、客観的および絶対的に正しいとするならば、拳骨でもって教育することも正しいのだろう。しかし、実際の教師は人間であり、個人の価値観で思考している。したがって、常に正しいことを教育するために殴るという保証は無い。したがって、この東国原知事の発言は、単に人気取りや知名度向上のためのパフォーマンスか、あるいは真性のバカである。そのいずれであるとしても、私の価値観からは好ましくない。

そこでだ。私の価値観を「教育」するために、東国原知事を殴りに行ったとしても、まさか東国原知事は私を訴えるようなことはすまい。なぜならば、教育に暴力要素を取り入れるべきだと主張しているのだから、自分が教育されるために殴られても、感謝こそすれ、怒りはしないだろうと考えられる。

東国原知事と宮崎県議会の自民党議員さん、いまから殴りに行ってもいいですか?

9 comments:

Anonymous said...

誰があんたに教育してほしいっていったの?
教育者にそういう権限を与えてもいいのでは? という提案と、
どこの馬の骨とも知らんやつが、知事にげんこつ食らわせてもいいという話をごっちゃにしてあれこれ言っているのは滑稽ですね。

江添亮 said...

あなたがどこの国に住んでいるかは存じませんが、我が日本国では理由の無い暴力を禁止しております。
してみればこの話は、教育者に、暴力を振るってもよい正当な理由を与えるべきだということでございますが、先にも述べた如く、教育者が常に正しい判断を行うとは限りません。共産主義者かもしれませんし、キリスト教右派かもしれませんし、日蓮宗かもしれませんし、イスラム原理主義者かもしれません。私の小学校時代にも、理不尽な教師がたくさんいました。
理不尽な理由で殴られた子は、一体何を思うでしょう。
もし暴力を使えば教育がより向上すると考えるならば、試みに暴力が平然と振るわれていた昔をご覧ぜよ。
少年犯罪はテレビのネタになるぐらい減っています。テレビで報道されるということは、それだけ珍しいことなのです。昔は子供が暴れる事件が多すぎて、わざわざテレビで取り上げていたらきりがなかったのです。

Anonymous said...

何をもって「理由のない暴力」というのか。
法による担保がなければすべて「理由のない暴力」ですか?

Anonymous said...

昔と今の犯罪発生率を比較し、それが教育者がげんこつをしていたかどうかと相関があるように無条件にいうのはあまりにずさんな議論ですな。

江添亮 said...

日本は法治国家ですし、子供に最も影響を与えるのは、やはり学校教育ではないのですかね。
政治家は現状を学ばなければならないはずで、もし暴力による教育を肯定するならば、政治家に意見を陳情しに行くときは、署名を集めるだとか、デモを行うだとか、文書を書くなどといった方法ではなく、政治家を殴りに行けばいいのではないでしょうか。

教育のために殴っていいとするならば、例えば南北朝時代はどちらが正当かと言う問題で、意見が教師と合わないために、合法的に殴られる可能性もあるわけですが。

Anonymous said...

子供に最も影響を与えるのは、やはり親だと思うのですが、それはともかく。

こういうのは昔の日本では法律の出番ではなかった。
だから、今条例で「法的に」どうにかしようというのには大いに疑問はあります。

ただ、昨今の「人権意識」の拡大で先生だけががんじがらめに縛りつけられている感が否めない現状はどうお考えですか?

そこはどうでもいいから、とにかく暴力だけはいけないのだ! という非暴力原理主義的な思考停止は言ってみればガキのたわごとです。

一度、公立の先生をやってみることをお薦めします。

江添亮 said...

そもそも法律と言うものは、その時代の道徳や常識に左右されるものです。

いわゆる民事不介入というものも、多くの人が正しいと思っているかこその原則なのです。国家権力が過剰に首を突っ込まないという点では良いのかもしれませんが、逆に足かせとなり、子供を虐待から守りにくいなどという問題もあります。

少し前までは、尊属殺という、親殺しは他人を殺すよりも重罪というものが、法律で規定されていました。現代人にとって見れば、親であるかどうかで、殺人の罪の度合いが変わるというのは不思議ですが、これも、法律制定当時の人々の道徳や常識では、普通だったのでしょう。

してみれば、民事不介入の原則と言うのも、法で明文化されていませんが、戦前の苦い歴史があるからこそ、できたものです。

「昔はこうではなかった」、「昔は良かった」などと言うのはよしたほうが賢明です。昔の常識が今の常識と同じはずがありません。そんなことは今に始まった話ではなく、数千年前のエジプトのパピルスにも書いてありますから。

それこそ、こうやって誰でも法律や政治について話し合えるのも、恐ろしく最近の事なのです。

Anonymous said...

万人が眼にするブログという場所で、名指しで「暴行予告」ともとれるタイトルを書くような人であるあなたの人格を私は疑います。

とても賢い方のようですので、批判ばかりではなく、ぜひ代替手段をお聞かせ下さい。

私は無知ですので、自分の経験の範囲でしかものを申せませんが、過去に私を殴った教師を一度もうらんだ事はありません。むしろ感謝しているぐらいです。殴られて初めてわかる事もあるのです。

江添亮 said...

暴行予告ですか?
私はくだんの政治家と同じ発言をしているだけなのですよ。
彼らはゲンコツは教育要素として認められてしかるべきだと発言しているわけですから、それはつまり、すべての子供は、教育と言う名の元に殴られてしかるべきだと主張しているわけです。
だから私は、彼らを「教育」したいだけなのです。政治家は国民から学ぶ必要があるのは明らかですから。

代替手段ですか。あなたは殴られて感謝する人間なのですから、どうぞ存分に殴られてください。

ただし、その価値観を人に押し付けないでもらいたいものですね。
だから、あなたのように殴られて喜ぶ人種にのみ、体罰を認めるというのはどうでしょう?

結局、当事者同士が合意していれば、問題は無いのですから。