2007-02-19
Otogi-zoushi by Dazai Osamu
青空文庫:お伽草紙
お伽草紙とは、太宰治が書いた、昔話のパロディである。BOOK OFFで、100円ぐらいで投げ売られていることであろうが、即席に読みたいという本の虫諸君のために、青空文庫が便宜を図ってくれている。まったく、青空文庫があれば、一生読み物に困らない気さえしてくるから、面白い時代になったものだ。
元になっている物語は、四つある。瘤取り爺さん、浦島太郎、カチカチ山、舌切雀である。それぞれ、太宰治らしき脚色が加えられていて、実に愉快である。世に蔓延せる、下手な三文ラノベより、よほど笑いを誘う事、何のかたきことあらんや。
ここに、その概略を記すの愚を、敢えてして、云わば、まずい筆の我との比較によって、太宰治のすばらしさを伝えたいと思う。
まず始めに、瘤取り爺さんの話である。一般的な話の次第は下の通り。
昔々、あるところに、善良なる瘤爺さんと、邪悪なるこぶ爺さんが居た。善良なる瘤爺さんが、鬼の酒盛りで踊りを披露して、たいそう喜ばれ、邪魔な瘤をもいでもらった。邪悪なる爺さん、これを聞くや、自らも鬼の元へ出かけ踊りを披露するが、たいそうまずい踊りで、先の善良なる爺さんの瘤もつけられて、二つの瘤を持つことになったそうな。
この物語が、太宰治の手にかかると、だいぶ変わって来る。善良なる爺さんは、単なる酔っ払いの痴れ者に変わってしまい、邪悪なる爺さんは、学と財があれど、絶えず瘤を気にしている神経質な爺さんになってしまう。鬼どもも、たんに粗野なる山の野人に代わってしまう。酔っ払い爺さんは、その粗野な酒盛りで、なんとも原始的な芸にあきれ果て、自分がましな芸を見せてやろうと踊りだす。このため、鬼どもは、再びこの爺さんに来てもらいたくなり、大切なものと勘違いした、瘤を取り上げて、亦来るように言う。神経質な爺さんはこの話を聞き、我もと鬼の元に出かけるが、疲労する芸は、酒盛りには向かない冷めたもので、鬼どもから逃げられ、瘤を返すから、勘弁してくれとまで言われて、もうひとつの瘤を付けられてしまう。
つまり、この話に、悪人は一人も登場していない。
次は浦島太郎の話である。
浦島太郎は、丹後の水江(京都府北部)に住む豪族の長男で、人々が他人を批判しあうのを疎ましく感じていた。彼が助けた亀に連れられて、竜宮へ行って帰ってくるのだが、まず冒頭から、亀に関する考察が始まる。そもそもどんな亀なのか。海のそこ深く潜るには、水かきがついていなければならぬが、そもそもそういう亀は、小笠原や沖縄に住んでいるのである。日本海にいるわけがない、と言った調子である。
カチカチ山、これは酷い話だ。一般的には、この話は狸が悪役である。婆汁を作って爺さんに食わせたりしているからだ。しかし、これだけをもって、狸を悪と決め付けるのは早計である。なにしろこの狸、爺さんに、狸汁にされるため、捕まえられたのである。死に物狂いで逃げ出したというのが正しい話であろう。爺さんの戦意を喪失させるために、婆汁を作ったというのも、頷ける話である。兎が仇討ちをするのも、まあいいだろう。しかし、やり方が汚い。背中に大やけどを負わせられ、唐辛子を塗りこまれた挙句、泥舟で溺死させられるのである。何故、名乗りを上げて、一太刀の下に切り捨てなかったのか。こんな話は、日本には他に存在しない。まったくもって武士道に、即ち男の道に反する。そうだ、この兎は女だったのだ。兎は歳十六ほどの少女、狸は、その少女に惚れ込んだ中年男である。公でなければ説明がつかぬ。兎は狸の弱みを利用して、ネチネチといたぶるのである。なんと酷い話だらう。
舌切雀の話に行く前に、何故桃太郎を書かなかったのかという理由を書いている。桃太郎は日本一の主人公にして、貧弱な空想力の自分では、到底書き得ない、というのが、その理由だ。
肝心の舌切雀は、どうも太宰治らしさが、十分に発揮せられていないように感じる。これはどうしたことだろう。
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