2010-08-26

日本の参考書には図表が多すぎではないか

私は、ここ五年ぐらい、日本語で書かれたプログラミングの参考書を読んでいない。というのも、日本語で書かれた参考書の質が非常に悪いため、もとより読む気にならないのだ。

ところで、今ふと翻訳ではない日本語の参考書を眺めてみたところ、いずれも図や表がやたらと多いということに気がついた。どう考えても多すぎである。本の半分以上は図表で占められているのではないかと思うぐらいだ。何故こんなに多いのか。

私は、図表が嫌いである。思うに、図表というのは、物事を視野の範囲に収まるぐらいに見せかけるだけであり、実際に物事を理解できるわけではない。物事を明確に説明するには、文章による記述が必要である。

もちろん、機械の操作方法の説明で、ある場所に位置するボタンを押すという説明の場合には、機械の絵や写真があれば分かりやすいとは思う。しかし、プログラミング言語の場合、「機械の絵や写真」に該当するものは、ソースコードである。絵ではない。

いわゆる状態遷移の図を本に載せる場合、さらにひどくなる傾向が見られる。ほとんど一本道なはずのフローを、紙面のスペースの都合上なのかどうかは知らないが、スゴロクのようにねじ曲げているのだ。これでは分かるものも分からない。

英語の参考書を読んでいて、こんなに図表に出くわした覚えはない。とすると、世に翻訳の参考書がもてはやされるのも、畢竟、図表が少ないからではないだろうか。日本の参考書はどうなっているのだろう。

日本の参考書は、何でもやたらと図表にしたがる。「変数」という概念を説明するのに、値を入れる箱のような図を描くし、何か列挙する必要のある概念を説明するには、縦にも横にもやたらと項目の多い表を描く。それで分かりやすくなったかといえば、ちっとも分かりやすくなっていない。本末転倒も甚だしい。

さらによく分からないことに、日本の参考書は、ただそこにわずかな余白があるという理由だけで、何の意味もない、関連性に乏しいアイコン的なイラストを挿入したがる。これも意味が分からない。これは絵本でもなければ小説でもない。参考書である。技術書である。教科書である。ただスペースが余っているというだけで、無駄な芸術性を発揮されてはたまったものではない。

これは一体どうなっているのだろう。マンガの国、日本の人は、どんなに複雑な図表でも理解できるが文盲だとでもいうのだろうか。

2 comments:

Anonymous said...

真実は、その逆だよ、逆。

いいかね?まず、人間の脳はその成り立ちから、パターン認識、特に文字よりも絵や写真のようなものをよく認識出来るように出来ている。一目瞭然という言葉があるように、適切に描かれた図表は非常に効果的に作用するのだ。はたまた、注意すべきポイント、大まかに分類した区分けなど、図やアイコンを使用して強調できる例は幾つもある。そして大抵の場合は、説明文と図表の距離が近いほど、内容に結びつけて理解できる。
いかにプログラミング言語の解説といえど内容を説明する文章があるからには、それを図解することができる…というより、読者にとってより良い方法は上で主張したとおりだ。つまり、図は多用すべきだ。何かをリファレンス的に、表として網羅するような内容なら別だが、順に解説するようなものはたいてい図表で解説できるはずだ。

まあ、もちろんこれは理想的な図表が描かれて、それらが最適なレイアウトで配置されていた時の話だ。世の中には糞のような図表や考えもせずにまとめて置いた配置がゴロゴロしていることだろうから、仰るようなひどい参考書や技術書が溢れていることだろう。

ひとつだけ言いたいことは、普遍的に技術書における図表が役に立たないと断じるのは無理だということだ。文章のみを使った本は、頭にそのまま入力しやすくはない。それは読者の能力が足りないのではなくて、脳の構造的にそういった作業に向いていないということからくる。海外の技術書でも、きちんと読者の方を向いて作られた本ならより読みやすいレイアウト、適切な図表を用いているぜ。

Anonymous said...

江添さんは、プログラミング言語という、言語的知性が重視される分野の本を読んでいるのでそう感じるのではないでしょうか。

私は今、機械学習関係のグラフ理論の洋書を読んでいますが、図表だらけです。

ウェクスラー式知能検査などをすると分かりますが、
人間は、聴覚優位(言語的情報や聴覚からの情報のほうが得意)な人間と、視覚優位の人間に大まかに分けられます。

僕は、おそらく視覚優位な人間ですから、文字だけで説明されると、わけがわからなくなります。(もちろん、とんちんかんな図表は何の役にもたちませんが)

江添さんはどう考えても聴覚優位でしょうから、文章のほうが理解が用意なのでしょうね。