2013-09-10

コミケの保存されにくい同人文化と、複製による情報保存の歴史

前回前々回で、筆者はコミケの非効率性と文化保存の認識の欠如について書いた。しかし、どうも問題が正しく認識されていないようだ。

なぜ複製のみが文化財産の消失を防ぎうるか

情報が後世に保存される確率を最も上げるのは、複製である。この単純な事実が理解されていない。どうして、どこの馬の骨ともしれぬ個人の当てにならぬ、勝手気ままで、品質も期待できないような複製が、情報の保存に役立つのか。なぜかと言えば、保存されることにより、情報が消失する確率が下がる、すなわち保存される確率が上がるからである。

情報がひとつの媒体に縛られているというのは、とても当てにならない。ここの情報媒体は、とても簡単に消失してしまう。

まず、単にその媒体が、経年劣化により腐ったり磁気情報が弱まったりして、読み込めなくなるという問題がある。紙の寿命は、それほど長くない。確かに、千年前に書かれた文章が、その書かれた紙ごと現存している例はある。しかし、そのような文章には、大抵多くの写本が存在する。そのため、原本が現存しなくても、情報は保存されている。原本の存在は、情報の保存に必須ではない。

おそらく、読者が必要としているのは、実際の歴史だろう。そこで、ここでは歴史を紐解き、本物の情報の保存家を紹介する。

冷泉家

たとえば、明月記だ。藤原定家によって書かれたこの日記は、当時の第一級資料として価値が高い。従来、この明月記は、写本のみが存在し、原本はとっくの昔に散逸したものと思われていた。藤原定家によって書かれた自筆の原本は、その極一部が、美筆の名高い定家の自筆として、掛け軸や屏風に残るものだとばかり考えられてきた。それで特に問題はなかったのだ。明月記には十分信頼のおける写本が多数あったので、それでよかったのだ。原本は滅びたかもしれないが、情報は無事に保存されたのだ。複製が情報を保存した例である。

もちろん、現実はとても面白い。定家は自筆の明月記原本を、自分の子孫のうち、何を思ったか、出世もろくしないさえない孫、冷泉為相に譲り渡した。何故か? 為相は他の誰よりも、情報保存の価値を理解していたからである。為相の血筋である冷泉家は、明月記原本を始めとした様々な文章の写本の蔵書を、「御文庫」と称し、かたくなに守り続けてきた。政治の実権が武家に移り、たびたびの戦火動乱を経ても、為相の朽骨墓中より光を放ち、あるいは草を結び、影に冷泉家の御文庫を守ってきた。冷泉家の情報保存家としての精神は、今日に到るまで、受け継がれてきたのだ。

天旋日轉迴龍馭(てんめぐりひめぐりりゅうぎょをめぐらし)、明治になって世は過ちに気付いて天皇に実権を返し、再び天皇を中心とした正統な政治が行われるようになった。というのは冗談で、天皇は混乱を防ぐために担ぎ上げられた傀儡で、明治政府はある程度の近代的な民主主義を実現していた、ある程度は。とにかく、天皇は新しい都である東の荒夷の住む田舎東京に、一時的に御幸遊ばされることになった。

天皇が一時的にせよ住居を移すのだ。天皇に付き従って京都に住んでいた公家達も、天皇を追って住居を東京に移した。天皇の忠実な臣である彼らであるから、天皇が長期的に住処を移すのであれば、付き従うのは当然である。

冷泉家は違った。もし、冷泉家が引越しをするとなると、御文庫はどうなるのか。情報の保存は複製すればいい。しかし、御文庫は、完全な複製ができない、当時の原本と写本なのだ。情報の保存の価値がわからぬ他人の手に預けることはできない。かといって、輸送すると失われる危険がある。為相の血を受け継ぎ、情報保存の精神を未だ失っていない冷泉家は、京都に踏みとどまった。結果として、御文庫はそのまま保存され、後に明月記原本の発見につながったのだ。原本は今の技術によって、写真撮影により忠実な複製や、活字に起こしての出版がなされた。

明月記原本の発見により、写本に大幅な誤りが発見されたという話は聞いたことがない。したがって、明月記を保存したのは複製のおかげであることに変わりはない。原本の存在は、たまたま運が良かったので・・・いや違う、幸運ではなく、冷泉家のおかげである。

冷泉家こそ、本物の情報の保存家である。もっともこれは稀有な例で、大抵の場合、原本は残らない。

その冷泉家は、今もなお、同志社の敷地に張り出す形で家屋を構えている。私の知る、地方からやってきたかつてのある同志社の一学生は当時、その脇を通り、「なんじゃこの建物は、じゃまやなー」と思ったそうだ。その時友人に、「おいおい、あれは冷泉家だよ」とたしなめられ、「え、あれがあの有名な、あっちのほうが大先輩、いやはや気づきませんで」と後悔しきりだったとか。

ちなみに、その同志社の元学生が語ったことによると、当時、学長が学生を前にした何かのスピーチで「諸君は同志社の学生として法律を守り云々」といったことを発言した時、すぐさまその場で、「新島襄先生は、国禁を犯して、アメリカに渡られたではないか」と叫んだ学生がいたそうだ。これには学長も返す言葉がなく、聴衆の賛同の声がこだましたという。さすがは同志社といったところか。(*同志社を設立した新島襄は、当時の政府が海外渡航を禁止する中、船に潜り込んでアメリカに密航し、そこでアメリカを見て、日本にも教育が必要だと痛感し、アメリカ人に対して、日本に教育をもたらしたいので協力してくれと頼んでまわったそうだ。物好きなアメリカ人もいるもので、結構な寄付金があつまったそうだ)

平家物語の写本家と琵琶法師

平家物語の原作者を議論するのは無意味である。たとえ、吉田君の証言が正しく、信濃の前司行長なる五徳冠者が書いたのだとしても、もはや何の意味もない。平家物語は、写本の数ほど派生作品が存在する。写本ごとに独自の話を挿入し、あるいは削り、表現を変え、表記を変えていった。現代に出版されたものでさえ、忠実な翻刻ではない。校正者の勝手気ままな解釈による句読点(噴飯に耐えざるなり)を加え、また正しい歴史的仮名遣い(と校正者が信じるもの、噴飯に耐えざるなり)に直し、また当時普通に行われていた当て字をかなに直し(余計なお世話である)、一部の語句に対して、当時のものであろうと思しき読みを記述しと、とにかく忠実ではない。

平家物語は、写本と琵琶法師による複製により、現代にまで残った。その中でも最も有名で、現代で平家物語と言えば、だいたいこのテキストが参照される琵琶法師の元締め覚一による覚一本。やたらと和漢の故事を大量に挿入し、時には勝手に話を捏造してまで文章量を増やし、挙句には独自の名前までつけられた源平盛衰記など、とにかく異本が多い。

結局、原平家物語は現存していないが、平家物語は残ったわけだ。そのオリジナルがどのようなものだったのか推測するしかないのは残念だが、多数の写本により平家物語は改良され、とても素晴らしい作品に仕上がった。これは、平家物語が書かれてすぐに公開され、また語られたからである。

他の説話集は、書かれた直後に複製される機会を失ったために、平家物語ほどいい目をみていない。例えば、今昔物語は、全国を行脚して物語して回ることを稼業としている者のネタ帳として書かれたという説がある。残念ながら、今昔物語は、書かれてから数百年ほど死蔵されていたので、直後に複製される機会を失った。複製できるようになった時には、もはや時代が変わっていて、改変の余地がなくなってしまった。

古今著聞集は、橘成季というあまりパッとしない人間によって書かれた。橘成季は実に平均的な公家だった。馬術、音楽、詩文と、当時の公家らしく多方面の技術を磨いた。しかし、どれも一流には達していない。古今著聞集には、評価すべき点も多い。説話を詳細に分類したこと、説話が多岐にわたること。出典を明記し、また出典がわからない場合は、「世上に噂されているが当時の日記に記録なし、後で詳しく尋ねて記すべし」などと出典が得られなかったことも記している。

残念なことに、橘成季は保存家の精神無く、古今著聞集は当初、子孫に秘蔵するよう命じた。読んでいいのは、子孫と、その子孫に認められた一部の者だけにせよと、そう書き残した。このため、古今著聞集は改良されなかったし、その質も、成季の人生と同じく、あまりぱっとしないままであった。

今昔物語や古今著聞集は、たまたま運良く、後に写本する機械が得られたので、改良はされないまでも、現代に残ったのだ。

国外でも、焚書坑儒なアレクサンドリア図書館の焼亡など、時の権力者により、情報を消失させた例が山ほどある。このとき貴重な文化財産である情報を救ったのは、違法な複製であった。アレクサンドリア図書館は焼き討ち前に、職員が写本を禁じていたが、こっそりと書き写した一部の書籍が残った。焚書坑儒に対しては、服に縫い付け、壁に塗りこみ、あらゆる手段で本が隠された。実に、情報保存家の勇気ある行動と言える。

この歴史を見れば、情報を保存するのに、特定の記録媒体の保存は役に立たないことが分かる。記録媒体は劣化する。情報は、複製されなければ生き延びることができない。冷泉家のような筋金入りの情報の保存家でもなければ、原本を保存することなどできない。

しかし、複製物が同一である保証がどこにもないじゃないか。質の悪い改変が施されて、それが後世に残ってしまうかもしれない。改変されてもいいが、一体どうやって、オリジナル、原本を残せばいいのか。ある複製物が原本から改変されたものであるかどうか、どうやって他人が知ることができるのか。という声がある。

彼らは、この2013年の暗号技術の発達を知らない。この2013年には、ハッシュ関数という数学的によく考えだされた一方向性関数が存在する。ハッシュ関数を使えば、とても大きな情報(数ギガビット、数テラビット、あるはペタ接頭語の使用に到ろうとも)を、わずか数百ビット程度の一意の情報(ハッシュ値)で表すことができる。もちろん、数百ビットの情報から、元の情報を復元することはできない。しかし、元の情報が1ビットでも違えば、その情報から算出されるハッシュ値は、異なるものになる。これにより、僅かな改変でも見つけ出すことができる可能性が高い。また、ハッシュ値が一致すれば、全ビット列が同一であると保証できる全ビットが一致する可能性が高い。

もちろん、ハッシュの恩恵を受けるには、公式な原本のビット列による情報の表現と、そのハッシュ値を公開しなければならない。ここに、原本の電子媒体を公式に公開すべきだという主張が生きてくる。ハッシュ値さえ信頼できる方法で知らせれば、他人の受け取った複製物に改変がなされているかどうかが検出できるのだ。あとはできるだけ多く複製させ、後世に保存される可能性を上げればよい。

コミケによる情報の配布手段が、もっぱら死んだ木への印刷物という物理的な情報媒体に頼っているのは、極めて残念なことである。そのような情報の配布方法は、保存しにくい。

情報は貴重な文化財産である。歴史的資料である。あらゆる人間の創作物は、保存される価値がある。将来の歴史家の貴重な第一級資料となる。

23 comments:

Anonymous said...

江添先生のC++本を保存しましょう

Anonymous said...

・連載中、放映中のアニメ漫画でオナニーしたいです。
・幼女だろうがなんだろうが、女はマンコの穴の中を弄ると相手は悶絶します。
・60iと30pの違いの判らない位のメクラがdpiを語るな。(実際アナログペン入れと比較するなら3200dpiが最低ライン? 油絵とかと比較するなら数十万単位dpiでも論外と思われ)

こんな感じでの祭りなんじゃないかな?
あと週間少年誌で連載持てない絵描きのカキ入れ場兼、素人の射精券としての同人誌購入パーティー券みたいな~



Anonymous said...

複製論については、下記の本が面白かった。

『レプリカ---文化と進化の複製博物館』(武村政春著、工作舎、2012/11/26)

Anonymous said...

自分の書いた情報をネットに保存するのも
しないのも個人の自由です。

個人の自由を尊重してください。

あなたが尊重すべきなのは個人の自由です。

あなたの考えが唯一無二の自由の形ではありません。

自由の形を定義するのも個人の自由です。

あなたは個人の自由を冒涜しています。

やねうらお said...

> また、ハッシュ値が一致すれば、全ビット列が同一であると保証できる。

そんな保証はできません。「ハッシュ値が一致しなければ、元の情報のどこかに異なるビットがある」ことは言えますが。

あるいは、N-bitのハッシュ値であれば、良質なハッシュ関数であれば(元の情報のどこかに異なるビットがあるのに)偶然ハッシュが一致する確率は1/2^Nでしょうけども。

江添亮 said...

自由というものを考えるときは、利用者の立場から考えるべきです。
今、ある紙の本を所有しているとして、この紙の本に書き込みを入れようが、破ろうが、燃やそうが、ゴミの日にだそうが、所有者の自由であるべきです。
もし、物理的媒体である紙の所有者が、その紙を自由に処分できないとしたら、そのようなものは自由はありませんし、そもそも所有しているとも言えないでしょう。
著作権はそこまで及びません。
これを考えれば、自由は利用者側にかかるものであり、提供者側にかかるものではないことはあきらかです。

また、著作権は限定された期間、独占的な権利を認めるものであり、保護期間が過ぎた後には、独占的な権利はありません(日本の著作権法では一部残っているものもありますが)。

しかし、現行の著作権の保護期間は、記録媒体の寿命に比べて、あまりにも長過ぎます。
このため、一部の邪悪な人間は、著作物の保存を妨害するような行為により、著作権が切れるまで作品を保存できないようにしている。
実に憐れむべき人間です。


ハッシュに関して、「可能性が高い」という表現に変えました。

Anonymous said...

>個人の自由を尊重してください。
個人の自由なんてもともと様々な理由で制限されてるじゃん。

自由の形を定義するのも個人の自由だって言うなら江添が唯一無二の自由の形を定義したっていいんじゃん?

Anonymous said...

> 自由というものを考えるときは、利用者の立場から考えるべきです。

それはあなたの個人的な意見に過ぎません。
一方的に押し付けないでください。

著作権の話をしているのではありません。
自由の話をしてるのです。

あなたは他人の考え方の自由を奪うのですか?

江添亮 said...

現実問題として、保存されない自由を保証する権利というのはないのです。
最も可能性が高いのは著作権法ですが、一度正規の方法で譲渡が行われたならば、譲渡された著作物に関する私的利用には、著作権は及びません。
したがって、提供者に保存されない権利というものはないわけです。
保存されたくなければ、譲渡してはならない。公衆送信してはならない。誰にも見せずに秘蔵しなければなりません。

Anonymous said...

> 自由の形を定義するのも個人の自由だって言うなら江添が唯一無二の自由の形を定義したっていいんじゃん?

そのとおりですよ。

自由の定義は人それぞれです。人それぞれの自由の定義は間違っていません。

だから多くの場合どちらの自由を選んでもいいのです。


が、困ったことに皆がそれぞれの自由を選んでいたら、社会が壊れます。だから法律で自由を奪うのです。

でも壊れないならば、個人の自由でいいじゃないですか。

歴史的価値がある作品が複製されないことで社会が壊れますか?よっぽどのことがない限り壊れませんよ。

その程度のことならならば個人の自由でいいのです。

自分の作った作品をどうしようがそれは個人の自由。他人にとやかく言われることではありません。自分が作った作品が歴史的価値がある作品で世の中から消えてたとしても、それはその人が個人の自由で選んだ結果ならば問題は全くありません。逆に消したかったかもしれないですからね。

自由、自由、自由を尊重しましょう。

Anonymous said...

現行法の範囲内でやるならみんなが私的に自分の家のストレージとかに保存しておけばいいってわけか。

でそれだと保存の実態がわかりにくいから、保存したら保存したよーって宣言するとか。

あとは研究目的での複製が認められてるんだから、もしコミケ委員会とかが保存してるんだったら、そっから貰って全部デジタル化すればいいような気もするな

Anonymous said...

> 現実問題として、保存されない自由を保証する権利というのはないのです。

権利とかそんな話はしてません。そんなもの国や時代によって変わることです。保存されない自由を保証される必要もありません。

個人の自由は他人が決めることではありません。あくまで自分が決めることです。自分が決めていいことです。

個人の自由は他人が奪ってきます。悪者が無法に奪ったり国が正義の名のものに奪ってきたり。

でもそれは自由を奪うのであって、個人の自由が間違いであることにはなりません。

そして個人の自由が奪われないならば、その自由は認められた自由ということです。

自分の作品を自分の意志で複製禁止にすることを、誰かが禁止してますか? していませんね。ならばそれは認められた行為であり、そのことを他人がとやかくいうことではありません。

もっとも他人がとやかくいうのも自由ですが、それはただの雑音。誰かが勝手に言ってる戯言です。

Anonymous said...

>個人の自由は自分で決めるもの
そんなことはないでしょう。自由を侵害されない権利を日本国政府が保証してくれていて、侵害されないように予防し、もしくは侵害された場合は懲罰を与えてくれるという意味です。
自分の作品を自分の意志で複製禁止にすることを、日本国政府が禁止することができるのかどうか、という話であって、著作者が著作物の複製をコントロールする権利が認められていないのであれば、日本国政府は複製禁止を禁止することができます。

Anonymous said...

ツイッターによるとこの人鼻くそほじりながら適当にコミケ記事書いてるらしいよ。もう反応するのやめようよー。
明らかな炎上マーケティングじゃん

Anonymous said...

匿「するしないも個人の自由です。尊重して下さい」
江「利用者の自由を尊重して下さい」
匿「個人的な意見を一方的に押し付けないで下さい」

Anonymous said...

>ツイッターによるとこの人…
せやな。

タイトルに釣られて読みに来たけど、特にためになる話はなかったな。

ちなみに関係ない話。自分は漫画アシだが、デジタル作業のほうが紙の消費が激しい。作業途中でもいちいちプリントアウトするからだ。
結局は手元に置かないと全体像が掴めないからだ。読む側にとっても紙媒体が未だ廃れないのは似た印象をもつ層がまだ一定数いるからだろう。
読み手にとって好ましい形態は読み手の需要次第だし、描き手が保存の義務を負わなければならないとする根拠も薄い。

まあプログラマーじゃこういう感じの意見になるか。

Anonymous said...

流通の自由、保存しない自由が阻害されると思うのですが、自由ソフトウェア主義者である江添さんとしてはどういったお考えなのでしょうか。
それとも自由が認められるのは利用者側だけなのでしょうか。

江添亮 said...

「保存しない自由」という言い方は正しくありません。
「提供者が保存させない自由」というべきです。
しかし、提供者がそのような自由を行使すると、利用者の「保存する自由」が制限されます。

提供者と利用者、どちらの自由が優先されるべきか。
自由ソフトウェアと同じく、自由とは利用者の自由であるべきです。

Anonymous said...

フリーソフトウェアやフリーコンテントの立場に立てば、利用者側の自由を尊重するのは当然ですからね。その基本コンセプトだけは正しいし全く持って同感ですが、問題は、江添さんの結論が全く「利用者の自由」を尊重していないことですね。

江添さんはもっとちゃんと自由について学ぶべきです。特に今回のケースはフリーソフトウェアではなくフリーコンテントの立場から議論すべきことなのですが、他の記事(クリエイティブ・コモンズに関するものなど)を読む限り江添さんにその知見があるようにはとても思えません。

Anonymous said...

情報の保存法として500部の印刷物とウェブ上の公開とどちらに永続性があるかというのは考えどころだと思う。かつて永久に消えないと言われた流出ファイルの入手性は現在どうであろうか。流通の取締を受けたコンテンツの公開は継続可能であろうか。

Anonymous said...

そもそもの主張であった
「なんで未だリアルで集会開いて本やりとりしてんの?ネットでいいじゃん。そっちの方が効率的」

って話からズレすぎじゃありません?
で、それについては「集まるのも目的だからだよ」「人間効率のために生きてるんじゃねえよ」で答え出てると思うのですが、いつまでこの話題引っ張るんですか?

Anonymous said...

ダビンチやゴッホの作品に対して絵の具という利用者の自由を尊重しない物を使った残念な作品jであると評するんですか?

Anonymous said...

面白かったです。

写本は内容だけでなくて、文字そのものもそっくりに真似て写したものもあると聞いたことがあります。昔の人もすごいですね。

個人で電子化(購入者が自炊)後に古本屋に売却とか、最近は増えてるんじゃないかと思うんですが
これも複製に入るのかなぁ?

コミケは行ったことありませんが、ああいう即売会って膝つき合わせて顔合わせてコミュニケーションとるって楽しそうですね。
リスクもあるけど。