エジプトのパピルスに、「最近の若いものは・・・」と書かれているという話は、有名である。しかし、具体的に、どの文書に書かれていたか、そして、その実際の文面は、どのような意味だったかという事は、一向に明らかになっていない。
これは由々しき事態である。はっきりとした一次ソースがないのである。これでは、「最近の若いものは・・・」などと偉そうに講釈を垂れるジジババどもに反論できないではないか。
これに関して、調査を試みた人がいくらかいる。
最も古い「最近の若者は…」のソース: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
2008-05-25 - 雑記
まあ少なくとも、日本にこの、何千年前のエジプトのパピルスにも、「最近の若いものは・・・」などと書いてあるという話を持ち込んだのは、柳田國男が始めであるらしい。幸い、私は定本柳田國男全集を、全巻所有している(ただし、別巻3の索引が欠けているのだが)。定本全集でいうと、14巻の、「昔風と当世風」という文章に、この話は載っている。読んでみると、なるほど確かに、そういう話がでてくる。
ところで、上記のサイトは、この該当部分の話しかひいていないが、この柳田國男の話には、続きがある。日本でも、平安末期に、似たような考えがあったと。考えて見れば、わざわざ四千年前のエジプトの例を引かなくてもいいのではあるまいか。日本にも、かつて、世の中の終焉を憂う思想は、広く行われていた。平安末期、鎌倉初期あたりには、「もう世の中は末である」という思想が、本当に広く行われていた。自分の読んだだけの本でも、平家物語や、愚管抄に、この思想は強く現れていた。
しかし、個人を無視して、世代をひとくくりにしてレッテルを貼る風潮は、どうにかならないものか。
例えば、私の両親の学生時代には、大学の講義中には、決まって自称革命家とやらがやってきて、革命的会議にこの革命的な部屋を革命的に使用するので、講義を中止して部屋を明け渡せなどと主張することが、たびたび行われていたらしい。しかし、私の両親は、このような学生運動には与していなかったので、これをもって、私の両親も学生運動の世代であると言うのは、当たらないのではあるまいか。
ところで、この柳田國男の文章は、定本では大きく、「木綿以前の事」という題の下にある。これは、木綿が発明される以前、我々は何を着ていたのかという話だ。興味深い。
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