10代で読んでいないと恥ずかしい必読書 - その1 - PictorialConnect
思うに、これらの書物は、哲学である。数学や物理学や機械工学などではない。してみれば、これらの書物は、原文で読まなければ、真に「読んだ」とは言えぬのではなかろうか。なぜならば、数学などの学問は、どの言語で定義しているかということは、問題にならないはずである。しかし、思想は、言語の影響を受ける。しかも、これらは口頭で語られたものではなく、文章である。中には、スピーチを文章に落とし込んだものもあるが、結局、文章であり、聞くのでなく、読むことを前提にしていることには変りない。
しかし、このリンク先の人物は、古ギリシャ語やラテン語に加えて、当時の(現代語とは多少異なる)ドイツ語、フランス語、デンマーク語、英語、イタリア語を、すべて読むことができるのであろうか。ザメンホフや柳沼重剛のような言語オタクならともかく、果たして本当にそのような言語オタクなのだろうか。もしそうでなく、どれか一冊でも翻訳で読んでいるのであれば、彼は自分の発言を恥づべきである。
むしろ逆に、10代では読んでも理解出来ない書物を挙げたほうが役に立つのではないか。
たとえば、芥川龍之介だ。彼の文章を真に理解するためには、今昔物語集を読破しなければならない。私も、今昔物語集を、最近になって読み終えて、始めて彼の文章の真の素晴らしさが分かった。しかし、現代人は、10代のうちに今昔物語集を読破するのは難しい。
高山樗牛もすばらしい小説をひとつだけ書いたが、あの文章が以下にすばらしいかを理解するためには、源平盛衰記を読破しなければならない。これも、10代では、難しいだろう。
古文や漢文も、10代の頃から読んではいたが、当時は、本当の面白さを理解してないなかった。もっとも、私のことだから、30代になれば、「20代の頃は、古文漢文の本当の本当の面白さを理解していなかった」などと思うのであろう。
これを思うに、結局、時間が足りないということだろうか。
では逆に、10代のうちから楽しめる書物は何か。私の経験では、太宰治、中島敦、吉川英治である。彼らの書く文章は独特の勢いがあり、特に難しいことを考えなくても読める。ただし、20代になると、もう楽しむことはできない。というのも、彼らの小説は、筋書きが違うだけで、後はすべて同じだからだ。太宰治は、陰鬱な文章ばかり書いているし、中島敦は、人より優れていながら、何らかの理由によって成り上がれないでいる主人公の話ばかりだ。これは、作者の性格と環境が影響しているのであろう。吉川英治は、王道とも言うべき大筋を、どの小説に対しても適用する。特に不自由せず暮らしていた人物が、ある問題を発端として、これまでの人生を否定せねばならず、その結果として放浪の旅があり、最後には問題を円満に解決するといったものだ。
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