戀塚寺に行ってきた。ここは、あの文覚が袈裟御前を葬った場所といわれている。
京阪で丹波橋まで行き、そこから西に向かって歩いたが、やはりだいぶ距離があった。実は、今の戀塚寺は、二年前に再建されたものである。とはいっても、その前の寺も、鳥羽伏見の戦いの後に再建されたものなのだが。
まずは恋塚を見てみることにした。寺に入って右手のスロープを降りると、塚がある。何ということはない、どこにでもありそうな平凡な塚であった。犬が一匹、ひもで繋がれていた。この寺で飼われているのだろう。おとなしいが好奇心旺盛な犬であった。
さて、目的の、袈裟御前の肖像画と、寺の縁起絵巻を見てみることにした。お堂を右に回ると、ガラス戸越しに眺めることができる。しかし、あいにくと曇り空で、さらにガラス越しで離れていることもあり、細部がよく分からない。どうしたものか。そもそも、この寺は住職が住んでいる寺である。頼めば中に入れてもらえるのではないか。さっそく電話をしてみたところ、入れてもらえた。
近くで縁起絵巻を観察できたので、ガラス越しでは分からなかった部分もよく分かった。とりあえず分かったことを書いておく。
まず、一段目の左は、衣川と盛遠である。同じ屋敷にいるということで、親戚同士であるということをあらわしているのだと思われる。その次は源左衛門尉渡である。その次は、渡と袈裟で、婚姻かなにかだろう。袈裟の隣にいるのは誰だろう。盛遠のはずはないが、袈裟の父親なのだろうか。その次、一段目の左端は、盛遠と渡が、屋敷を守護しているところだろう。何しろ、彼らは北面の武士なのだから。
二段目の左は、盛遠が左手に衣川の襟をつかみ、右手で抜き身の刀を持って、まさに斬らんとしているところである。その次は、衣川と袈裟が会っているところである。その次は、袈裟と盛遠だ。二段目の左端は、袈裟が渡に酒を強いているところであろう。
三段目の左は、盛遠が月光に首を照らしてみると、なんと袈裟の首であったという場面である。ただし、その話は、たの書物には見えていない。というのも、源平盛衰記や猿源氏草子では、盛遠は首を懐に入れて持って帰り、その後、袈裟が何者かに首を斬られたという話を聞いて、驚いて首を見てみると、袈裟であったとされているからだ。その次は首を切られた袈裟である。その次がよく分からないが、衣川なのだろうか。右端は、寝ている渡である。
四段目は、盛遠が袈裟の首を持って渡の屋敷に推参するところである。その次は、渡と盛遠が髻を切るところ。右は、おそらくは神護寺であろう。戀塚寺の説明では、文覚は神護寺で出家したという話である。ただ、神護寺で出家した落ち宇野は疑わしい。なにしろ、当時の神護寺は、誰も住んでいなかったはずなのだからだ。文覚が修行した後に神護寺に住んで、再建のために勧進してまわっていたのだ。
五段目の左は、よく分からない。火事にあっているところなのだが、どこが焼けているのだろうか。まさか戀塚寺ではあるまい。というのも、戀塚寺が建立されたのは、嘉応二年(1170年)とされているからだ。文覚が出家したのは、どんなに遅く見積もっても、まず1140年頃であろう。その頃にはまだ、寺自体がなかったはずである。もっとも、塚を建てるぐらいだから、何かしら寺があってもおかしくはないのだが。その右に袈裟の後世を弔う塚や、袈裟が観世音菩薩の化身であるか、あるいは彼岸に度したような描画、文覚の那智の滝での荒行があるのを見ても、時系列的に前である。なぜ火事になっている建物があるのかよく分からない。
六段目の左端は、戀塚である。右がよく分からない。文覚が伊豆に流されている時の絵ではないかとも思うのだが、違うかもしれない。川は鴨川であろう。ひょっとしたら、法然が流されたことを描いているのかもしれない。
戀塚寺は観光化されていない寺であった。いい寺だ。また行きたい。
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