耳塚とは、京都市の豊国神社の近くにある塚のことだ。昼間に前を通ると、常に韓国人の人だかりができている。戦前は李舜臣のことをすっかり忘れ果てていた民族にしては、近頃は殊勝なことだ。しかし、この韓国人達は実に平和的である。というのも、もし彼らが、耳塚の左側にある石碑に書かれている漢文を知ったならば、烈火のごとく怒り、頭髪上指し、目眥尽く裂き、石碑を取り囲み、素手で破壊し始めるであろう。石碑は劣化が激しく、もはや何が書いてあるかよく分からないが、次のように書いてある。
與隣敵交兵欲宣国威而已矣非悪其人而戮之也春秋邲之役楚人請築京観楚王
不可曰古者明王伐不敬取其鯨鯢而封之以為大戮於是有京観今罪無所而民皆
尽忠以死君命又可以為京観乎論者以為盛徳然未若我豊太閤之仁及枯骨其徳
為更深也按史征韓後役我軍連捷諸将有所斬獲截敵鼻献功其数幾万公喜其勝
賞其功而愍彼士為国致命埋其獲於京都大仏之前為築墳塋立大卒塔婆名曰鼻
塚請五山僧呂四百人大修供養資其冥福時慶長二年九月廿八日也相国寺承兌
撰其文美公之不分恩讎不論彼我深垂慈仁以設平等供養夫恩及海外可謂広矣
况於交戦之敵国乎推公此心謂之行今日赤十字社之旨於三百年前豈其不可哉
世徒謂公豪雄英武誇大自喜因以此塚比京観而誰知其慈仁博愛而有礼如此之
深哉塚後訛称曰耳塚物換星移豊氏絶祠而塚独儼存巍然為平安之偉観四方観
光之客弔古之士無不徘徊顧望于其下欽当年之偉業感豊公之慈仁者此地旧属
妙法院故以時修仏事而世変多故久委荒残矣今茲豊公功臣愛将之裔与同志者
諝謀将修公墓以行三百年祭而未及此塚心竊恨焉方広寺原董権大僧正泰良以
此塚與大仏関係尤深欲修営建碑期豊公祭大修追弔供養之式予亦以妙門嘗掌
豊国廟尤喜其事有所斡旋既得官準京都市給金若干円以助之其旧部内亦附以
其前地於是広募資用以起其役乃築乃修材良工励以一月三日経始以三月廿日
竣功宏荘完堅比旧時有加焉陸軍大将大勲位功二級彰仁親王聞而嘉之賜以題
字可謂栄矣夫此塚者邦威拡張之符表豊公盛徳之遺物而朝鮮者与我輔車相依
唇歯相保邇年我国率先万国扶其危匡其傾明其独立為之大戦以完隣邦之交誼
則於其旧時亦能無感乎豊公既行之乎交戦之日今日則為友邦豈可不益尽其道
哉嗚呼十方衆生一視同仁三界万霊平等利益希以此修営保其物以此供養資其
福奮武之跡慈仁之挙大顕於世且両国隣交益加厚東洋平和永莫渝乃記其事勒
貞珉以垂不朽明治三十一年三月廿日
陸軍大将大勲位功二級彰仁親王篆
前天台座主大僧正妙法院門跡村田寂順
どこにも訓読した文章が見つからないので、試みに訓読してみる。
隣敵と兵を交えるは、宜しく国威を欲するのみ。其の人を悪むに非ずして、之を戮す也。春秋の邲の役に、楚人の京観を築くを請ふ。楚王、可めずして曰く、古に明王伐って敬はず、其の鯨鯢を取りて、之に封し、以って大戮を為す。是に於いて京観有り。今罪とする所無く、而して、民は皆忠を尽くし、以って君命に死す。又以つて京観と為すべきや。論者は以つて盛徳と為す。然るに未だ若我が豊閤の仁枯骨するに及ばず。其の徳更に深しと為す也。按史征韓の役の後、我が軍は連捷にして、諸将の斬獲する所有りて、敵の鼻を截りて功として献ず。其の数数幾万、公其の勝を喜び、其の功を賞して、彼の士の国に命を致す為に愍れみ、其の獲たるを京都大仏の前に埋め、墳塋を築いて為し、大いなる卒塔婆を立て、名に曰く、鼻塚として、五山の僧侶四百人に請ふて、大いなる供養を修し、其の冥福を資く。時は慶長二年九月廿八日也。相国寺兌を承つて其の文の撰び、美公の不分の恩讎は、彼我も論ぜず。深く慈仁を垂れ、以つて平等の供養を設ける。夫れ恩は海外に及び、広く謂ふべし。況や交戦の敵国に於いてをや。推公の此の心、之を謂ふ。今日の赤十字社の旨を三百年前に行ふ。豈其の可ならざらんや。世の公豪雄英の謂に従れば、武に誇り大いに喜ぶに自り、因つて此の塚を京観に比す。而れども、誰か其の慈仁博愛にして、礼此の如く深きを知るや。塚は後に称を訛して曰く、耳塚と。物換り星移り豊氏の祠絶えるも、塚は独り儼かに在す。巍然として平安の偉観と為し、四方の観光の客、古の士を弔い、徘徊して其の下に顧望せざる無し。欽に当年の偉業、豊公の慈仁に感ずるは、此の地は旧は妙法院に属し、故に時を以つて仏事を修す。而れども、世変多く、故に久しく荒残に委す。今茲に豊公功臣愛将の裔は同志の者と諝く謀り、将に公墓を修して、以つて三百年を祭を行ふ。而れども、未だ此の塚には及ばず、心竊かに恨む。方広寺の原董権大僧正泰良、此の塚の大仏と関係尤も深きを以つて、営を修し、碑を建てんと欲し、豊公祭の大修追弔供養の式に期し、予ねて亦妙門嘗掌豊国廟を以つて、尤も其の事の斡旋有る所を喜び、既に官準を得、京都市は若干円の給金を持つて之を助け、其の旧部の内、亦其の前の地を以つて附して、是に於いて資用を公募し、以つて其の役を起こし、乃ち築き、乃ち修し、材を良くし工を励まして、一月三日を以つて経を始めて、三月廿日を以つて竣功し、宏荘にして堅を完うし、旧時の加え有るに比す。陸軍大将大勲位二級彰仁親王聞きて之を嘉し、以つて題字を賜う。栄謂うべし。夫れ此の塚は邦威拡張の符表、豊公の盛徳の遺物にして、朝鮮は我と輔車相依り、唇歯相保ち、邇年我が国は万国に率先して、其の危うきを扶け、其の傾きを匡い、其の独立を明らかにして、之の大戦を為し、以つて隣邦の交誼を完うし、則ち、其の旧時に於いて亦能く感ずること無きや。豊公既に之を行わんや。交戦の日は今日則ち友邦と為す。豈益其の道に尽くさざるべけんや。嗚呼、十方の衆生視を一にして、仁を同じくし、三界の万霊は平等の利益なり。希はくは、此の修営を以って其の物を保ち、此の供養を以って其の福を資く。奮武の跡、慈仁の挙、大顕世に於いて、且は両国隣交の益加ふること厚く、東洋の平和、永く渝わること莫かれ。乃ち其の事を記して、貞珉を勒し、以つて不朽に垂るべし。
韓国人が知ったら怒りそうだ。現代訳などは、太宰治の嘲笑するところであるからしないが、少しだけ分かりにくい部分の解説をしつつ、要約をしてみる。
この碑は明治三十一年に作られたものである。楚王というのは、楚の荘王のことである。京観というのは、敵国の兵士の死体を使って、我が国はこんなにすごいことをしたのだと宣伝する塚である。荘王は徳のある人だったので、敵国の兵士といえども、その国のために命を落とした人間であるからといって、京観を作らなかった。秀吉は、朝鮮出兵の際に、塚を作ったが、これは荘王よりも徳が高いことである。何故ならば、敵国の兵士を哀れんで、仏教的に弔ったからである。三百年前に赤十字社の精神を行っていたのだから、我が国は赤十字社に加入する資格がある。世の中の右翼左翼は、これを京観だというけれど、断じて違う。だいぶ荒れ果てていたのを、今(明治三十一年時点で)修復した。この塚は我が国が素晴らしい国であることを表し、秀吉の徳が高かったことを示すものである。朝鮮と我が国は共に協力すべきだ。我が国はどこよりも早く朝鮮を助けて、日清戦争を行い、独立させてやった。秀吉も昔同じことをした。アジアは平和になるべき。
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