この五日間、用事があって留守にしていた。その五日間の暇な時間に、かねてから読もうと思いつつも、つい打ち捨てておいた小学館の日本古典文学全集47 洒落本 滑稽本 人情本を読んだ。だいたい200年ぐらい前の江戸時代の文章だ。このような名前で呼ばれた当時の本は、廓が絡む話が多い。
読んでいて思ったのは、日本語というのは200年前も今も、案外変わっていないという事だ。もちろん、東京の方言で書かれているが、それを差し引けば、今の日本語とほとんど変わらない。
これは、洒落本、滑稽本、人情本が、読本とは違い、漢文がほとんど出てこずに、会話文主体の文章になっているからだと思う。日本語の話し言葉は、方言による単語や発音さえ差し引けば、200年前と今とで、あまり変わっていない。ただ、書き言葉だけが、平安時代に成立した様式がそのまま保たれただけのことだ。
ただし、どうしたわけか、会話文主体の文章なのにも関わらず、どの作品も、依然として露骨に漢文が出てくる。その方法は様々で、例えば物事を何でも漢音で話すクセのある漢学者を登場させたり、読本好きで漢文くずれの話し方をする人間を登場させたり、文盲(漢文が読めない者を指す)に無理やり漢文を読ませたりしている。なぜ、そこまでして露骨に漢文を出さなければならなかったのか。
結局、本物の文章は漢文(実質は古代中国語風の怪しい文章)で書くべきだという慣れがあったのだろう。今でも、我々は一部の発音とは異なる例外的な書き言葉を使っていて、その文法に従わない文章、例えば、「こんにちわ、今日わ街え買い物に出かけました」のような文章に、気持ち悪いほどの違和感を感じるのと同じなのだろう。
現代文らしい文章は、明治になって現れた。言文一致論が叫ばれ、特に二葉亭四迷と夏目漱石が、比較的よくやった方だと思う。私としては、世間一般では、夏目漱石は過剰に評価されていて、二葉亭四迷が仮称に評価されているように思うのだが、なぜ世間は夏目漱石ばかりやたらと持ちあげるのだろうか。作品数の違いからだろうか。
また、当時の時の権力による邪悪な検閲についても、一言述べておかなくてはならない。
こういった種類の本は、その扱う内容が内容なだけに、時の権力たる幕府が、頻繁に検閲している。洒落本、滑稽本、人情本などと細かくわけられているのは、流行による移り変わりもあるが、その都度、大規模な検閲のため、文化が途絶えているからだ。検閲は文化の進化を妨げ、絶滅させてしまうのだ。
検閲の害悪は文化だけにとどまらない。技術にも悪影響を及ぼす。この手の本は、版木印刷され、貸本屋に並べ、貸本屋からレンタルして読むという流通形態をとっていた。印刷された本には、版木の多色刷りによる見事な絵が何枚も印刷されていた。ところが、時の権力たる極悪な幕府は、多色刷りは公共風俗のためよろしからぬとして、多色刷りも検閲した。検閲は技術の進化をも妨げるのだ。
今も、日本には表現の自由がない。表現はわいせつ性という、時代ごとに異なる、明文化されない、とても曖昧な性質を有すれば、検閲される。そのわいせつ性を認められた物を配布するのは違法である。これは憲法に保証された表現の自由を犯している。
他にも、著作権や特許権といったものも、その本来も意図とは裏腹に、表現規制に何役も買っている。
さて、肝心の、この小学館の全集の質はどうかというと、あまりよろしくない。
まず、字体を新字体準拠を変更していること。字体は重要な表現の一部であり、それを勝手に変えるのは芸術作品への冒涜である。
カナも一部漢字に直しているという。言葉をカナでかくか漢字で書くかというのは、じゅーよーなひょーげんの一部である。イングリッシュでアッパーケースだけで書かれている部分を勝手にローワーケースに変えることがオリジナルミーニングをスポイルするように、カナと漢字を底本通りに翻刻しないのは原意を損なう。
さらに悲惨なことに編集者の勝手に句読点を打っていること本来句読点なしに書かれていた文章に句読点をあとから付け加えるのは芸術作品への冒涜であり甚だしく原意を損なう憎むべき行為だ。
さらに、山のように注釈があることも問題だ。たしかに、注釈があるのはありがたいが、注釈は読者の興味を散漫とさせ、本文への集中を妨げる。注釈は表示/非表示を切り替えられるべきであり、この点からも、早く死んだ木の本を絶滅させて、GFDLが定義する「通過」な媒体、フォーマットを普及させるべきである。現時点では、HTML/CSS/JavaScriptが最も適切である。
ただ、この本には、ひとつだけ評価できる点がある。それは、仮名遣いを改めなかったことだ。
私がここで言っているのは、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるという事ではない。それは評価のしようがない邪悪だ。旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた編集者は、日本人であるならば皆腹を切って詫びるべきである。他人の作品を汚すならば、自分が死ぬべきだからだ。もちろん、本物の小刀を使って腹を切るべきだ。扇子でごまかしてはならない。また、オリーブオイルをぶっかけられた筆者が空飛ぶスパゲティモンスター様の地獄に叩き落とすべきもの等だ。地獄ではビール火山はすでに死火山となり、ストリッパーは性病にかかっており、麺は伸びきっている。
私が声を張り上げて悪だと主張したいのは、「正しい歴史的仮名遣いに改めた」という主張だ。正しい歴史的仮名遣いなど存在しない。さだいえを引っ張りだしてきても解決しない。そもそも、THE歴史的仮名遣いなどというものはなく、単に、仮名遣いが統一されていなかったというだけなのだ。そのため、話し言葉とその発音を文字に書き出す際、作者ごとに思い思いの方法を使って表現した。たとえば、「いえない」に対して、「いいゑない」と書いたり、「おとっつぁん」の「つぁん」を、「さ゜ん」と書いたりする類だ。これらはいずれも、作者の表現の一部であり、勝手に変えるのは芸術作品への冒涜である。
小学館の全集は、新字体に変えるという許しがたい蛮行のため、普段は読むことがないのだが、こればかりは古本市で捨て値で投げ売られていたので、買ってきたのだ。
本の質はともかく、中身に関しては、なかなか面白い。他の戯作も読んでみようと思う。
とにかく、まともな戯作を読むには、草書体を学ぶか、あるいは古本を漁るしかないだろう。
11 comments:
ハア?
コンテンツはソフトウェアと同じく自由であるべしというのがこれまであなたがこのブログで主張してきたことではなかったのですか。とりあえずこの際その論旨の是非や考えの深さ浅さは横に置いておきますが。
今回あなたが取り上げているのは著作権の切れた、完全に自由な作品です。にも関わらず、仮名遣いを改めるなら腹を切って死ねと?
あなたの主張する自由とは何なのです?作品を改編したりそれを出版したりする自由すら認めないのであれば、あなたのいう自由は本物の(フリーソトウェア運動やフリーコンテント運動が掲げる)自由とは全く違う、邪悪な紛い物に過ぎません。あなたは仮名遣いを改編する編集者ごときを批難する前に、まずご自身の邪悪さと向き合うべきです。
そして、そんな間違った考え方をお持ちなら、今後自由を語るのは一切やめていた
だきたい。
まさかこんな根本的な部分から誤った考え方に汚染されているとは思いませんでした。あまりにひどい。
外国語で書かれた表現物を知るためにはすべからくその言語を学ぶべきなのでしょうか.
もちろん100%の理解のためには原著に当たるべきでしょう, しかし多くの読者はそれを求めません.
多少の齟齬が有っても構わないから母語で理解したいと考えます.
古代日本語と現代語とも同じ関係でしょう.
邪悪があるとすれば, 「改変事実の無記載」および「原文へのリファレンスの無記載」かと思います.
既存の古いソフトウェアが自由だからといって、それを最新のハードウェアに対応させるために行った改変が、
・パフォーマンスを著しく下げ
・UIの使い勝手を悪くし
・下位互換性を損なう
などの問題があれば、容赦なく叩かれるでしょう。
いいか悪いかはともかく、Wayland vs Mirについて江添さんがおっしゃっていたように、"おまえのカーチャン"でも使えるものが広まっていくので、"おまえのカーチャン"でも読めるものが広まっていくのでしょう。
作品を改編した結果を叩くことと、作品の改編という行為そのものを批難するのは全然別ですよ。
もちろん、自由な古典を改編した成果物をプロプライエタリな作品として売るのはフリーコンテントの立場からは批難するべきですが、ここではそういう趣旨のことは一切書いていませんし……。
この記事は、作者の表現の一部を勝手に変えてはいけない、と言っているようにしか読めません。もし本気でそんなふうにお考えなら、それは自由とは相容れない、非常に不自由な考え方です。
この手の古典文学全集が、独自の写本を作り上げるののであれば、いくら改変しようがどうでもいいのですが、底本に忠実な翻刻を謳っている以上、草書体を楷書体に変えるのは嬉しいとして、仮名遣いや漢字の当て字を勝手に改めたり、句読点を付け加えたりするのは、当初の目的を逸脱しているのです。
『日本古典文学全集47 洒落本 滑稽本 人情本』が底本に忠実な翻刻を謳っているとか、当初の目的を逸脱しているとか、そんなことは記事中に一切書いてありませんが……
ところで、C++ の本いつ出来上がるのですか?
それまで既刊本で我慢するとして、どれがいいですか、古典でなくても可。
入門用には、Nicolai JosuttisのObject-Oriented Programming in C++がいいでしょう。
David Vandevordeとの共著C++ Templatesもオススメです。
が、C++11やC++14となると、素直にドラフトや論文を読んだほうが。
原型がいいというのは長期的な考古学の話であって、それは文化的価値を創出する意味では意味があります。
しかし、民衆がそれを受け取るときには習慣に無いものを受け入れるほど暇ではないのでしょう。
まぁ、蟲が表現できなくて改悪だという評論もありましたけど、それには同意します。
しかし、読み手の知識にマッチングしなければ、エンターテイメント性はありません。
それを探求するのが技術者たる所以でしょうか。
寄付金詐欺をする自由いいねぇ
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