はたまた平家物語と源平盛衰記の比較を試みんとす。今回は、御輿振の部分を比較する。
まず、問題なのが、御輿振の起きた年だ。日付については、どちらも四月十三日辰の刻になっているのだが、年号が合わない。平家物語は、安元三年となっているが、源平盛衰記は、治承元年となっている。じつは、これはどちらも1177年を表すのだが、どちらが正しいかと言えば、平家物語の、安元三年の方が正しい。というのも、安元三年の八月四日から、治承元年に年号が切り替わっているからだ。したがって、治承元年の四月十三日というのはありえない。もちろん、どちらも1177年を表すのだから、混乱しやすいことではある。だからこの不一致は、些細な問題だろう。どちらも意味するところは同じだ。
次に源氏方の人数だが、平家物語では、「其勢纔に三百余騎(中略)所はひろし勢は少し、まばらにこそみえたりけれ」、となっているが、源平盛衰記では、「三十餘騎にて固めたり」、となっている。平家物語は、ことさらにその勢の少ないことを強調しているが、源平盛衰記の十倍も多い。源平盛衰記は、さらっと三十余騎としているだけである。勢が少ないことに言及する文章は無い。
参考にしている友朋堂文庫は、「餘」という漢字を使っているが、これは平家物語の参考にしている、岩波書店の配慮で新字に直しているだけだろう。
どちらの人数が正しいのかは、ちょっと分からない。ただ、山門の大衆から門を守るのなら、殿下の乗合の場合とは違って、三百人いてもおかしくはないが、勢が少ないかというとちょっと疑問だ。というのも、所詮は京都の御所である。三百人もいれば十分という気がしないでもない。それどころか、三百人は結構多いのではないかと思う。源平盛衰記は、三十人とだけ記していて、勢の少ないことには一切筆を労していないが、三十人が、御所の門を守るのに少ないというのは、言はれなくても自ずから明らかである。
また、長七唱(源平盛衰記では、丁七唱と表記する)の言葉使いにも、違いが見られる。平家物語では、すべて「候 」という言葉を使う。しかし、源平盛衰記では、大部分が「侍り」という言葉になっている。
ところで、平家方の人数は、唱をして言わせているのだが、これがまた面白い。平家物語では、単に大勢と言っているに過ぎないが、源平盛衰記では、三萬餘騎としている。言葉のあやなのだろうが、三万人は多すぎである。たとえ御所を更地にしても、入るかどうか怪しいものだ。
追記:
上の一文、教養不足のため誤りかもしれない。
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