2008-09-26

言語の進化神の歩みはいかに

最先端の文学を構造で分析してみる - wiseler : WAR IS PEACE

コメントで書こうとしたが、長くなるのでここに。

曰く、日本語は文脈の自由度が高い。携帯小説と呼ばれている文体は、個々の節の独立性が高い。この傾向が続けば、将来はまったく異なった文体に発展して云々。

いかにも言語学者の言いそうな事だ。言文一致論を極めるとああなるのだろうか。

言わせてもらえば、古典が優れているわけではない。漢字の当て方は、音さえ同じならいいという考え方であり、現在のような学校教育がなかったので、漢字が統一されておらず、異字体だらけだ。それに、やたらと現代の出来事を昔の類似した出来事に当てはめたがる傾向がある。もし古典の手法をもって現代の小説を書けば、まず漢字の使い方が間違っていると言われ、次に送り仮名が間違っていると笑われ、さらには、コピペ小説と叩かれるだろう。源平盛衰記では、ある出来事に関連させて、「この事は支那のある朝に何某というもの侍しに云々。また我が朝でも某天皇の御宇に云々」などという文章が決まり文句のように出てくる。

村上春樹は、もうとっくの昔に死んでいる。あの小説は、七十年代、八十年代の時代背景がなければ理解できない。例えば、亀を撃退する方法として、フリオ・イグレシアスのレコードをかけるという話があるが、あれも当時の人間でなくては理解できない。当時の人間である私の父親に言わせると、フリオ・イグレシアスはとてつもなくつまらないそうだ。過去の偉業があるため、今でも、本を出せばそれなりに売れるが、海辺のカフカ、アフターダーク、東京奇譚集、つまらない小説ばかりだ。と言いつつ全部読んでしまうのが、往年の小説の愛読者としては悲しいところだが。

哲学の文章の拙さは、そもそも当時の文章が、ああいうものだったから仕方がない。何しろ馬琴の文章で育った世代だ。

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