今度のC++WGのアドホック会議で、全く関係ないが、ふと思ったことがある。技術と利便性とは相関しない。つまり、どんなに優れた技術が開発されても、我々人間の生活の質は、あまり向上しないのではないかということである。
実は私は、技術の恩恵を、あまり直接的に受けていない人間である。私はスマートフォンを持っていない。私は電子書籍を活用してない。私は最近の映画や音楽やゲームを知らない。
29日のアドホック会議のことである。ちょうど昼頃になったので、我々は食事をすべく、外に出た。7人の我々は、全員そろって座れる席のある飯屋を探していた。多くの者は、iPhone等のスマートフォンを持っていた。これらのスマートフォンは、GPSにより、現在位置を把握し、周辺の地図を表示し、さらに、進んでいる方向にあわせて、地図を回転してくれるような機能まで備えているのである。これさえあれば、我々が道に迷う可能性はゼロであり、また、飯屋もすぐに見つけられるはずである。
しかし、現実は、そううまくいかない。我々の飯屋探しは難航した。地図に、何人がけの席があるなどというメタ情報がないことも、あるのかもしれぬ。ただ、私が思うに、一番の問題は、選択肢が多すぎたことであろう。
我々の眼前には、飯屋が軒を連ねていた。通りの左右がほとんど、飯屋だったのである。これがたとえば、ぽつんと一件しか飯屋がないとなれば、そこに入るしかないとなるであろう。ところが、飯屋の数はとても多く、しかも、一軒一軒の飯屋は小さいので、全員入れる保証がない。
しかし、どう考えても、これはおかしい。我々はとても便利なスマートフォンを所有している。これさえあれば、地球の裏側の飯屋の情報だろうと、その場で探せるはずである。それが、なぜ眼前に飯屋が軒を連ねていながら、適切な店を決定できないのか。一体、我々の科学技術は、何のためにあるのか。
似たようなことは、夕食時にも起こった。会議が終わり、同志の者が集まって食事をしようと計画していた。すでに、どの店に行くかは決まっている。問題は、会議に参加していない人も、その食事には参加する予定であり、どこかわかりやすい場所で、待ち合わせる必要があった。
しかし、我々同志の者は、20人以上いる。20人で待ちぼうけるのは無駄である。誰かひとりだけ残って、残りの同志達は、店に向かうのが得策だろう。しかし、店の場所は、アキラさんしか知らない。さてどうするか。
アキラさんは、おもむろに近藤さんに近づき、手に持ったiPhoneを見せた。曰く、「近藤さん、店の場所はここです。近藤さんもiPhoneを持っているでしょ。ここに向かってください」
近藤さん、対えて曰く、「えーと、どうやって同じものを表示すれば・・・・・・」
アキラさん「ほら、ここに住所(の文字列)が表示されているので、これを手打ちで」
近藤さん、「ええ、手打ちですか?」
そう、店の場所は地図で表示されているが、それをコピーする容易な手段がないのである。コピペは使えない。なぜなら、物理的に別のデバイスだからである。今、私は東プレのRealForceというすばらしいキーボードで、この文章を入力しているが、iPhoneのようなスマートフォンに、東プレのキーボードを使ったように素早い文字入力は期待できない。それならば、メールで送るか。いや、手打ちより時間がかかる。
同志A「なんか赤外線通信とかできないんですかね」
同志B「ガチャンとぶつければやり取りできるとか、そんなのないんですかね」
残念ながら、この二十一世紀初頭においても、いまだにそんな技術が開発されていない。技術的には、可能である。ただし、共通の規格がない。
共通規格は重要である。映画「スターウォーズ」では、R2-D2というアストロメク・ドロイドは、劇中で出てきたどんなコンピューターにでも、たったひとつの接続端子を用いてアクセスしている。C-3POというプロトコル・ドロイドは、首を切断されて、頭部をバトル・ドロイドに溶接されたが、問題なく動いていた。バトル・ドロイドの体は遠隔操作されていたが、C-3POの頭部も問題なく動いているので、電力供給その他のバスの配置に互換性があったのであろう。恐るべき互換性である。我々の住む惑星地球では、iPhone同士ですら、汎用的な通信に困っているのである。片や、昔々、遥か彼方の銀河系では、惑星タトゥイーンで、スクラップの中から、まだ子供であるアナキンの手によって作られたコンピューターが、その惑星内どころか、全銀河のコンピューターと互換性のある接続端子を備え、また、そもそも接続用の端子ですらない、単なるライン上の溶接ですら、問題なく動いてしまうとは。
iPadである。今、世の中を騒がせているデバイスである。そのiPadを、早くも所有している人間が、当日は何人もいた。私には、その良さがまったくわからないし、第一、Appleの製品を使うことは、私の宗教の信条に反する。ただし、Apple信者としては、布教活動をしたいらしく、色々とすばらしいiPadの機能を見せつけてきた。おそらく、キリスト教その他の宗教にも見られるように、他人に布教活動をすることが、自分の徳分を上げる善行だと信じられているのであろう。
まず、電子書籍である。ある人のiPadには、森鴎外や芥川龍之介や太宰治の電子書籍が収められていた。そのUIは、既存の紙で作られた本をめくるような感じで、直感的に操作しやすいものであった。
しかし、せっかく紙を脱したのに、なんでまた、紙と同じ操作性にしなければならないのだろう。よく分からない。ましてや、電子書籍には、ページの概念など要らないはずである。さらに問題なのは、DRMだ。これが問題だ。今、私が電子書籍を買ったとする。私は、コンテンツを読む権利を買ったわけである。コンテンツを読むのに、再生装置が何であろうが、問題ないはずである。私はApple公式の本をめくるタッチをしなければならない使いづらいビューワーをやめて、もっとまともな使いやすいデバイスの上で、使いやすいビューワーを使って本を読みたい。ところが、DRMのせいで、それができない。
今、ソニー製のCDが、ソニー製のCDプレイヤーでなければ再生できないとなれば、消費者はソニーの製品をボイコットするだろう。CCCDの件では、ソニーその他のレコード企業は大いに批判された。CCCDは、規格上、CDですらないのだ。ところが、ことAppleの場合に限っては、諸手を上げて賞賛されているのである。不思議なことだ。
我々が紙の本を使っていた時代、DRMなどというものはなかった。それどころか、無料で本を閲覧、貸出させる、図書館なるものが、大いに流行った。有料で閲覧、貸出をする、貸本屋という職業も、大いに流行った。さて、本の売上は、図書館や貸本屋のために落ちたであろうか。疑問である。
まあ、DRMの問題は、iPadというデバイス自体には、関係ないのかもしれない。iPadというデバイスで、何が出来るのか。ゲームは、いつの時代も、大いに注目されるコンテンツである。ゲームはどうか。iPadのゲームは、私の感想では、皆手を画面上に、意味もなくこすりつけているようにしか見えなかった。いや、アクション以外にも、ゲームはある。例えば、RTSのような頭脳を使うゲームはどうか。アキラさんの作ったRTSゲームは、やたらとたくさんのタッチを要求するゲームであった。取引所直結の株取引じゃあるまいし、そんなに素早い操作が必要なのだろうか。やたらと多い操作を要求されるRTSゲームというのは、何が面白いのだろうか。
私には、iPadのゲームとは、いかに複雑なタッチをいかに素早くできるかどうかを得点とするように思えた。
これによってこれをみれば、ハイパーオリンピックは、先見のあるゲームであったと言わざるを得ない。結局、ゲームはハイパーオリンピックに帰結するのであろうか。
技術の進歩は、もちろん喜ばしいことであるが、どうも、我々の利便性は、あまり向上していないように思われる。