八月二十九日
いよいよ旅が始まる。何はともかく、29日の用事は、絶対に遅れてはならないので、朝早く出発することにした。特にやるべきこともなかったという理由もあるのだが。午前七時に、JR京都駅から新幹線で京都へ。名古屋あたりは、田んぼは水で埋まり、川は水でいっぱいで、道路も水はけの悪そうなところは浸水していた。静岡に入り、十年住んだ故郷を、一目確認しておきたいと窓に張り付いたが、すぐに通り過ぎてしまい、さっぱり分からなかった。
さて、とりあえず新幹線の中で、時刻表を広げた。もとより私は、予定を立てるなどということが嫌いな性質なので、今回の旅においても、一切の予定を立てていない。ただ大雑把な目的がいくつかあるだけだ。C++WG会議の出席、森鴎外の墓、高校時代の友人達と再会。C++WG会議は機械振興会館で行われる。これは分かりやすいことに、東京タワーの隣である。もし迷ったとしても、タクシーでも拾って、「東京タワーまで」と言えばよい。あるいは人に道を訊ねるにしても、これほど分かりやすいところは無い。森鴎外の墓は禅林時にある。高校時代の友人達とは、名古屋で会うことになっている。
時刻表を確認したところ、浜松町へは、品川駅の方が近そうだったので、品川で新幹線を降りることにした。まあ、実際は、十分程度の違いでしかないのだろう。浜松町の駅に着いたときは、午前十一時前であった。早すぎる。C++WG会議は午後二時からなのだ。しかたなく、近くのコンビニへ行って、東京の地図を買った。また安そうな飯屋に入って、そばを食べた。なかなかに暇だったが、ようやく一時半となったので、指定の会議室に行くことにした。三十分前ならば問題なかろう。
45分頃に会議室に入ると、奥に一人だけぽつねんと座っていた。他には誰もいない。どうも気まずい。「えーと、あのー、ここはー」と言葉にならない間投詞を連発していると、「ここはC++云々」と答えが返ってきた。ここで間違いあるまい。
レビューは長引いて、六時前まで続いた。その後、数人とC++について話しながら、浜松町の駅まで向かった。問題は、この後予定が無いということである。名古屋で友人とあうのは、九月一日のことだ。それまでどこかで暇を潰さなければならない。所詮は狭い日本なのだから、一度京都まで帰ることもできるが、それは面白くない。行くあてがなく、地図を眺めていたところ、神保町が目にとまった。ご存知のとおりの古書店街である。なぜここが思いつかなかったのだろう。神保町に行かずして、一体東京のどこに行くというのか。さっそく神田駅に行く。
神田で降りると、着ぐるみの小太りとケバい女が数人、客引きをやっていた。
「コスプレスパンキングいかがですか」
コスプレをした奴の鞭を受けるのだろうか。あるいはスパンキングは単なる聞き違いだろうか。まあ、それはどうでもいい。さらに、駅前には悪くなさそうな焼き鳥屋があったが、まずは神保町を目指すことにした。
しばらく行くと、交番があった。地図の通りだ。つまり、道を間違ってはいないということだ。交番には大きな地図がかかっているので、ついでにその地図を見ようと、交番の中に入った。何しろ、手持ちの地図は小さく分割されているからだ。
「どうしました?」とお巡りさん
「いえ、ただ地図を見たいだけです」
「どこか行きたいところでも?」
「いや、ただ地図を見ているんです」
「いやいや、そんなこといわないで、どうしました?」
「地図が見たいんですよ。」
「いやいやいやいや」
話にならないので、交番を出ようとすると、引き止められた。
「そのかばんの中には何が入っているんですか?」
「何って」
「いえね、最近物騒でしょう。秋葉原とか。だからその、ちょっと荷物の検査を」
別に、最近、秋葉原でダガーナイフを持って暴れた奴がいたからといって、治安が悪くなったとは思わない。そういうふうに無差別殺人をする奴は、ある一定の割合でいるわけで、こればかりはどうしようもないのだ。しかし、そういう奴がわざわざ交番に入って地図を確認するだろうか。
「京都からきたんですか。東京へは何をしに? え、旅? あ、そう」
「何も危険物とかは入っていないですよね。えーとパンツとシャツばっかりだな」
当たり前だ。旅をしているんだから、着替えが必要だ。
「えーと、これは何かな。あ、わかった。ピンセットですね」
それは毛抜きだ。ヒゲの手入れをするために持ってきたのだ。だいたい、つまむ先が斜めになっているピンセットなどあるのだろうか。かばんに入っている中で、もっとも危険なものといえば、ヒゲの手入れをする小さいハサミぐらいなものだから、お巡りさんは何も発見できずに終わった。やれやれだ。
帰り際に、「神保町に行きたいだけなんですがね」と皮肉交じりに言ったところ、
「ああ、何だ。それならそうと早く言ってくださいよ。急に入ってきて何も言わないもんだから疑っちゃって」
私は三度も、「地図を見たいだけ」だと言ったではないか。このお巡りさんは聾に違いない。
「神保町なら何番目の信号を右に~」
神保町の道順は訊ねていない。私は「何番目の信号を~」などという言い方がとても嫌いなのだ。
「古本屋ですか」
当たり前だ。わざわざ神保町でコスプレスパンキングを受けたい奴は居るまい。
交番を出て、そのまま西に進み、大きな交差点があるところで右に曲がった。神保町であった。しかし、困ったことに、ほとんどの店が閉まっている。どうやら、七時半という時間は、すでに遅いらしい。仕方がない。どこかその辺で一杯飲むとしよう。
さて、飲み屋を探すわけだが、飲み屋には強いこだわりがある。まず第一に、チェーン店は嫌いだということである。チェーン店は面白くないのだ。確かに、チェーン店は小ぎれいで、安全で、値段もそれほど高くなく、ある程度の品質は保証されている。しかし、そんなところで飲んでも面白くない。個人でやっていて、汚くて、安いところがいいのだ。うまければなおよい。もちろん、大抵の場合は、失敗する。しかしたまに、悪くない店に入れることもあるのだ。
さて、神保町のあたりは、どうもチェーン店しか見当たらない。仕方がない、駅前の焼き鳥屋に行こうかと思っていたところ、いかにも汚い飲み屋を発見した。さっそく入ってみる。しかし、その店は大失敗だった。まずサッポロビールしか置いていない。それはまだいいとして、肴も全部まずい。最悪の店だった。
これはダメだ。早々に出て、もう一軒別のところを探そうかと思っていると、激しい雨が降ってきて、出られなくなってしまった。仕方がないので、不味い肴でチビチビ飲んでいると、二人組みの学生が入ってきて、隣に座った。この大学生達が、またひどい客だった。
飲み屋、しかも安くて汚い飲み屋となると、大抵一人ぐらいは、どうでもいい人生訓を語る奴がいるものだ。もちろん、それは語る奴だけのせいではない。ある酔客が人生訓を熱心に語っている場合、その相方というのが大抵、相槌ぐらいしか打たず、自分はひたすら聞き手に回る人間なのだ。二人組みの学生は、その典型的な例であった。
雨はやまない。学生はどうでもいい人生訓を語り続けている。ただでさえまずい酒が、いよいよまずい。仕方がないので、意を決して店を出ることにした。外は激しい雨で、すぐに服がずぶぬれになった。
これはまずい。このまま雨に打たれるのは、確実に身体によくない。
そこで、軒下でしばらく雨宿りをして、小雨になったときを見計らって、コンビニを探して駆け込んだ。傘を購入する。
さて、傘は手に入れたものの、道に迷ってしまった。とりあえず駅の方に向かって歩いたが、どうも見知らぬ風景ばかり。雨はやまず、仕方なく、ある橋の下に雨宿りをしているうちに、つい眠ってしまった。
八月三十日
目を覚ますと、すでに午前一時を過ぎている。ふと見ると、橋の名前が書いてある。神田橋とあった。やれやれ、これで地図を見れば、現在地が分かるわけだ。しかしおかしい。川が南北に流れている。つまりこれは、自分が南北と東西を間違えているに違いない。
ここで川に沿って歩くのは、大変な決意を必要とした。何しろ、今まで自分が北であると信じて疑わぬ方角が、実は東だったのだから。ともかく北と信じていた方角に進むと、神田駅が見えてきた。しかし、駅は閉まっている。さてどうするか。
どうしようもなく、地図を眺めていると、女が一人、近づいてきた。はて、一体何の用だと思っていると、
「マッサージする? ホテルいく? 朝までやる? オーケー」
中国人、いやフィリピン人だろうか。無視すると去っていったが、また別の奴がやってきては、「マッサージ、マッサージ」ときたものだ。やれやれ、少なくとも、これについていけば、ある種のホテルの場所は分かるわけだ。しかしついでに、標準ライブラリの名前空間までもらいそうだから、それはちと困る。
駅前なのだから、カプセルホテルやネットカフェのひとつぐらいあるだろうと、そのあたりを歩き回ったが、道行くたびに、キャバクラの客引きと、按摩が声をかけてくる。ああ、思えば京都は平和だったのだな。キャバクラの客引きはいても、按摩はいなかった。
雨が酷いので、コンビニに入った。暇なので立ち読みでもすることにしたが、手に取った本がまずかった。ホームレスのルポである。何で橋の下で眠った後であるだけに、やけに気分が悪くなった。そのルポの信憑性はともかく、ストーリーは大抵、バブルの頃はよかったが今は路上生活といった話だ。
コンビニを出て、あてもなくさまよった。見ると橋がある。やれやれ、つくづく橋の下に縁があるらしい。その橋の近くには、万世橋と書いてある。それならどこかにネットカフェのひとつもありそうなものだが、既に午前四時である。一眠りするにも、既に朝だ。そこで暇つぶしに時刻表を眺めた。夜が明けても、神保町の古本屋が開くまでには、だいぶ時間がある。さて、どこに行くべきかと時刻表を眺めていたところ、ふと森鴎外の墓のことを思い出した。寺なら、朝早くから入れるに違いない。さっそく路線を調べると、新宿から三鷹市へ行く電車がある。はて、神田から新宿へは、内回りと外回りのどちらで行った方が早いのかと調べてみると、どちらも同じ時間であった。お、これは楽だと思っていると、そもそもその新宿から出ている電車と言うのは、中央線であることに気がついた。
雨がやまないので、やよい軒に入って飯でも食べながら時間を潰すことにした。野菜炒めを食べ、時刻表を眺めていると、ようやく五時になったので、神田駅へと向かった。神田駅のホームのベンチに座って電車を待っていると、ついウトウトと、六時ごろまで寝てしまった。電車に乗ってからも、ついウトウトと寝てしまい、三鷹駅を乗り過ごして、武蔵小金井についてしまった。武蔵小金井駅は工事中なのか、戻るためには、別の場所にあるホームに行かなければならない。三鷹の駅で降りて、禅林寺へ向かった。
禅林寺には、特に拝観料という類のものはないらしい。そのまま入って、墓地に向かった。
森鴎外の墓があった。森林太郎墓としか書かれていない、堂々たる墓である。雨で地面がぬかるんでいるのもかまわず、ひざまずいて手を合わせた。そして長い間、墓の前に立って、ただ眺めていた。すばらしい墓だ。しかし、彫り付けてある字が気になる。とてもまずい字なのだ。まるで素人がガリガリ掘ったような字だ。森鴎外の墓の字は、誰か友人が掘ったのだろうか。そういえば、字の周りについているキズが気になる。あれはいたずらや長年の風雨でついたようなキズなのだろうか。ひょっとして、下書きなのではなかろうか。(後に調べたところによると、鴎外の墓は中村不折によって掘られたらしい)
森鴎外の墓の偉大さに圧倒されて、長い間立ちすくんでいたところ、娘が一人、こちらへやってきた。眼鏡をかけ、髪を腰のやや上まで伸ばし、いかにも知的な女学生といった様子であった。
あのような若い娘が、この禅林時の墓地へ来るからには、森林太郎の墓を拝みに来たに違いない。そう思って、私は墓の前をどいた。するとどうしたことか、女学生は鴎外の墓を素通りして、太宰治の墓へ行くではないか。
太宰治。確かに奴の文章は独特のリズムと言うか、勢いとでも言うべきものがあって面白い。がしかし、太宰治を面白いと思うのは、小中学生ぐらいまでなものだろう。第一、あの太宰治の墓からは、なんらの畏怖も感じられない。
しかしその女学生は、太宰治の墓の前に行くと、長いあいだ手を合わせ、墓をしげしげと眺めていた。
どうも解せない。太宰治も、たしかに悪くない文章を書いた。しかし森鴎外に比べれば大したことがない。あの女学生が極右か、陸軍の軍人の娘ならば、森鴎外の墓を拝まないというのも理解できる。何しろ奴は、脚気が細菌によって引き起こされると頑なに信じ、陸軍に麦飯を導入することに反対したことによって、ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺したと言われたのである。しかしそれならば、墓に唾していくはずである。まあ、婦女子は太宰治が好きなのだろうか。
しばらくあって、女学生は太宰治の墓の前を辞し、こちらへやってきた。今度こそ森鴎外の墓を見るに違いない。私は墓の前を開けた。しかし、娘は墓を通り過ぎ、まさに帰らんとしたところで、思い出したように振り向き、軽く手を合わせて一礼すると、去っていった。ああ、あの娘にとって、森鴎外とは、有名人の一人でしかないのか。
さて、次はどこへ行くべきかと、地図を繰りながら思案していると、多磨霊園が見つかった。多磨霊園には、確か中島敦が眠っているはずだ。地図で見ると、禅林寺から多磨霊園へは、それほど遠くないように思われた。そこで、歩いていくことにした。
歩いていったのは、大間違いであった。いつまでたってもつかない。延々と歩いていると、野川という小さな川があった。見ると、木陰にベンチがある。睡眠不足と疲労から、ベンチに座ってしばらくウトウトと寝た。しばらく休んで、さて行こうかと立ち上がると、そば屋の看板が目に付いた。見ると、地球屋とある。いささか左翼臭い名前だ。ちょうど昼過ぎで腹も減っていたし、考えてみれば、せっかく東京に来たというのに、そばを食べないというのもおかしな話だ。そばは江戸のものなのだ。うどんは京のものである。
地球屋に行くには、だいぶややこしい道をたどる必要があった。看板がいちいち出ているから迷うことはなかったのだが、それにしても変なところにあるそば屋だ。いざ地球屋についてみると、そこには、一軒のあばら屋があった。
あばら屋だと。もちろん私は、チェーン店が嫌いな性質なのだから、店が汚い程度で文句を言う人間ではない。しかしこの不調和はどうだろう。周りの家々は皆、最近立ったと思われる住宅街。そこに一軒だけあばら屋である。全然場所にあっていない。それに、店の前にある看板が気に食わない。曰く、「大声を出さないでください」、「子供(七歳以下)の入店お断り」、「携帯電話の電源を切ってください」と。この時点で、頑固さを演出しているにわか店だろうと、大方の見当はついたが、まあ一度ぐらいは、こんな店に入ってみるのもよかろうと思った。それに、「禁煙」と書いてあったのには好感が持てたからだ。ここまでするからには、十割そばぐらいは出しているだろう。
さて、店の中に入ろうとすると、入り口で止められた。何でも、今は一杯なので、外で待っていて欲しいということであった。しかし、別に並んでいる様子はないし、店の中にも人がいる様子はない。私は並ぶというのが大嫌いなので、ここで帰ろうかと思ったが、まあ物は試し、待ってみることにした。
外でしばらく待っていると、店の中から客が出てくる。しかし、一向に呼ばれない。待っている間に、思案してみた。何か有名なそば屋なのだろうか。いや、こんな風に、如何にもなにわかあばら屋である以上、別段有名でもあるまい。高いのだろうか。もり一杯が二千円を超えていたら、帰るとしよう。いくらなんでも、たかがそばにそこまで金は出せん。と考えていると、ようやく呼ばれた。
中は狭い庵のようなつくりになっていて、小さいちゃぶ台が二つ置かれていた。なるほど、そもそも客がいくらも入らないのだな。奥にはテーブル席もあるようなのだが、この小さな部屋が、この店の売り物なのだろう。周りには、如何にも昔風のものが置かれている。店の者が、和紙で作られた型通りのお品書きを持ってきた。そして能書きが始まる。
まずこの店は石臼で引いた十割そばしか出さないこと。つゆはこの店独自のものであること。野菜は自家栽培したものを用いており、テレビでも紹介されて云々。
ああ、能書き屋か。これは江戸のそばではない。そばと言うのは注文したらサッと出てくるものだ。気の短い江戸っ子が、こんな能書きをたれる店に我慢できるはずがない。わざわざあばら屋に店を構え、雰囲気を出そうとしても、この能書きひとつで丸つぶれというものだ。とくに、テレビで紹介などという言葉を出したのは最悪だった。私にとっては、テレビで紹介されたということなど、ネガティブな要素でしかないというのに。ああそう、所詮、テレビに出て媚売る程度の店なんだなと。
そばが出てくるまでには、だいぶ長い時間がかかった。江戸っ子ならとっくに怒って帰っていることだろう。そもそも、最初の屋台のそばと言うのはあらかじめ茹でておいて、注文に応じてつゆをかけてだしたそうだ。ようやくそばが出てきたと思ったら、また食べ方の能書きを垂れていく。やれやれ、ぶち壊しだ。そばは確かにまずくはなかったが、中途半端なそばだった。十割そばというわりには、やけに滑らかで長い。本当に十割なのだろうか。確かに十割で、変わらない長さと滑らかさを出すのも、腕次第では可能なのだろうが、そういうそばが食いたければ、つなぎを使えばいいだけの話だ。せっかく十割ならば、そば粉も粗挽きにして、太く短く打つものではないのだろうか。
店を出ると雨が降ってきた。天も我が心情を解するものと見える。そのまま歩いていると、近藤勇の生家が見えた。しかし、私は新撰組に心を惹かれることは無い。私に言わせれば、奴らは所詮、大きな時代の流れが読めなかった浪人上がりの賊軍なのだから。
さて、なおも行き、ようやく多磨霊園に着いた。しかし、あまりに広すぎて、どこに何があるのかさっぱり分からない。中島敦の墓は一体どこにあるのか。詳しい区画を調べてから来るべきだったと後悔したが、もう遅い。仕方がない。またの機会に来るとしよう。
さて、三鷹駅から多磨霊園まで歩いてきて、さすがに疲れた。帰りは電車に乗って帰ろうと、多磨駅まで歩いて帰った。どうも、この多磨駅というのは、西武線になるらしい。JRにそのまま乗り入れているのでややこしいが、私鉄だ。いやまて、JRが国鉄であったのは大昔だ。すると、すべての日本の鉄道は私鉄と言うことになるわけか。ともかく電車で帰った。
さて、いよいよ神保町だ。通りはほとんどが古本屋である。まさに天国だ。何軒か回ると、春秋左氏伝を発見した。原文と訓読が乗っている。欲しかったが、値段が二万五千円と高い。なぜ欲しいかと言うと、かの森鴎外が、よい文章をかく秘訣を問われた時には決まって「左伝を読め」と言ったからである。もちろん森鴎外が言うからには、素読なのだろうか。
さて、さらに古本屋を巡っていると、源平盛衰記を発見した。しかし、三弥井書店のものだ。これなら別に古本で買うまでも無い。それに、三弥井書店の源平盛衰記は、注釈がやたらと多くて、研究用にはいいかもしれないが、純粋に物語を楽しむことができない野暮な本だ。更に何軒かまわると、とうとう友朋堂文庫の源平盛衰記を発見した。六千円である。友朋堂文庫にしては高いが、どうも保存状態がいいからこの値段らしい。六千円なら買いだ。
しかし、三鷹から多磨霊園まで歩いたのは、失敗だった。足が痛いと思っていたら、両足にまめができていた。普段あまり歩いていなかったからに仕方がない。コンビニで針と百円ライターを買って潰した。さて、今日はさすがに、横になって眠らなければならない。風呂にも入りたいところだ。カプセルホテルに泊まることにした。カプセルホテルでは、特記するほど面白いことはなかった。ただひとつ、カプセルホテルに住んでいる人がいたということだ。その住人のロッカーは、上から下まで引き出しが詰め込まれ、整然としていた。そのカプセルホテルは、風呂付きで一泊三千五百円する。風呂に入らないとしてもやはり金がかかる。回数券を買えば安くなるようだが、それでもどうしようもなく金はかかる。一月にかかる金額を考えたら、郊外に安アパートのひとつも借りられると思うのだが。
風呂に入ってさっぱりすると、服の臭いが気になった。シャツやパンツはコンビニでも手に入るが、ズボンはそういうわけには行かない。もともとぼろぼろだったジーンズが、更にぼろぼろになって、異臭を発していた。洗濯をしようにも、備え付けの洗濯機は一時間待ちである。だいたい、五百円払って洗濯をしてまで使いたいほどのズボンでもない。新しいのを買えばいいと、ズボンをロッカーに入れて、その日は眠ることにした。名前通りのカプセルの中に入ると、思ったよりも快適な空間であった。テレビが備え付けてあったが、ブラウン管で画質が悪い。脇を見ると、アダルトチャンネルに合わせるためのスイッチがある。五百円払えば見られるようだ。しかし、こんなところで見て何になるのだろう。ここでアレをするのだろうか。世の中は分からない。神保町でついでに買ってきた、中島敦の作品集を読もうとしたが、睡魔に勝てず、寝ることにした。
八月三十一日
午前四時半に、誰かがセットしたアラームのおかげで、起こされてしまった。アラームはかなり長い間、鳴り続けた。アラームをセットした当の本人が眠りこけているのだろうか。そのままもう一眠りしたが、どうも長くは眠れない。結局、六時にカプセルホテルを出ることにした。特にこれ以上、東京で行くあてもなかったので、静岡方面に行くことにした。足はマメだらけなので、こんなこともあろうかと持ってきた雪駄をはいていくことにした。
何しろ、当日の新幹線の中で、初めて時刻表を開いたぐらい、予定を立てるのが嫌いな性分をしているのだが、鈍行を使っての旅は迷わなかった。とりあえず静岡の磐田まで着き、ズボンを一着買った。磐田西高校まで行ってみたが、残念ながら、誰もいなかった。夏休みとはいえ、静岡の公立学校は、九月一日あたりに始まるはず。教師の一人ぐらいいてもよさそうなのだが、誰一人いなかった。
さて、今日中に名古屋に行くべきか、あるいは浜松あたりで一泊すべきかと思案していると、明日名古屋で会う予定のある友人が、今日は静岡の実家に帰ってくるらしい。会うのは一年ぶりだ。これ幸いと泊めてもらうことにした。この友人の名前を、仮に御史としておく。戦国時代の歴史オタクだからだ。その歴史君の家に一泊して分かったのだが、家族がいずれも読書家であった。まあ、家庭の環境が、御史を御史たらしめたのだろう。ところで、明日名古屋で会う予定だった小太りから、眼鏡が壊れたというメールが入った。相変わらずうだつの上がらない奴だ。
九月一日
さて、次の日名古屋に入ると、既に四日前から、買い物に名古屋に来ていたというクイズ王と、四年ぶりに再会した。なかなかのイケメンである。クイズ王という名前は、この友人がクイズ好きであることによる。四年たっても、やはりクイズ好きであった。
さて、午後二時になると、無名君がやってきた。奴を形容する言葉を色々と考えたが、どうもこれはと思う言葉が見つからないのだ。芸術家とかナルシストなどでもいいのかもしれないが、やたらにガタイがよく、正確も見かけどおりの豪傑なところがある。何か突出したものがないとも言える。無名君でいいだろう。無名君はやってくるなり、私の姿を見て爆笑した。失敬な奴だ。ちなみにその日の私のいでたちは、バリカンで頭を刈って、八字ひげを生やしていた。どうみても普通の容貌である。それなのに、無名君は笑うことしきりで、ついには余をして密入国者呼ばわりする始末。本当に失敬な奴だ。
そうこうしているうちに、変人がやってきた。変人という名前は変に思われるかもしれないが、それ以外にこの男を表す言葉が見つからないのだから仕方がない。高校の頃はムーを購読していたし、最近はアウトドアだといいながら、家の中にテントを張って暮らしていたこともあるという変人だ。変人君は無名君と肩を並べて私の身なりを笑った。実に失敬な奴らだ。
さて、変人が言うには、名古屋駅の周辺は、特に遊ぶ場所も少ないから、大須のあたりに行こうということであった。クイズ王が大須まで歩いていこうというので、ぶらぶら歩いているうちに、ガキンチョから名古屋駅に着いたという連絡があった。ガキンチョは童顔で声変わりしておらず、思想も幼い。しかし、会わない四年のうちに、やたらと背が伸びたらしい。五尺七寸はあるという。私が五尺四寸しかないので、一番チビということになってしまう。しかし、顔と声と思想は相変わらずらしい。まだ救いがあるわけだ。このガキンチョがなかなか出会えない。暇つぶしに境内でハトのエサを買ったら、大量のハトに襲われた。これはいい。奴が来たら罰としてハトのエサやりを命じよう。
甘かった。奴はハトが大嫌いだったのだ。ハトに近づこうともしない。エサを持たせようとしても必死で逃げる。残念だ。
その後、喫茶店に入った。私はすでに甘いものが食べられない味覚になっているので、パフェを頼む連中が理解できなかった。しかし、野郎ばかり六人も喫茶店に入ってパフェを頼む図は異常である。酒も入っていないのに、皆やたらにハイテンションである。
ボーリングをすることにした。私は日本で絶滅危惧種に指定されているボーリング未経験の一人だったので、さっぱりだった。御史はボーリングが苦手と見えて、私と似たようなスコアだった。待ち時間の間には、クイズ王がクイズを出していた。四年前となんら変わらない。
ゲーセンに立ち寄った。私はゲーセンには興味がない。クイズのゲームをやってみたが、興味の分野が無い。クイズ王は何かカードのようなものを持っていて、そのカードを入れてゲームをするとより難しいクイズが出されるようになっていた。
さて、そろそろ飲みに行くわけだが、連中はチェーン店を選んだ。やれやれ、私の好まない店だ。確かに安くて失敗は無いが、期待以上と言うことも無い。酒はクイズ王のゲイの話で盛り上がったが、私は残念ながらこんな店では酔えない。飲み屋をでて、やたらにハイテンションな連中の後に続いて、どことなく名古屋をさまよった。カラオケに行くらしい。途中で、福田首相の辞任を伝える号外が配られていた。カラオケのサービスは午前一時からだという。それまで路上で暇つぶしをしていた。クイズ王は相変わらずクイズを出していた。
九月二日
カラオケに入って朝まで歌った。私は寝ていた。
翌日、静岡の磐田に帰った。さて、御史はその日のうちに山梨に帰るという。やれやれ、もう一泊御史の実家に泊まろうというもくろみは、当てが外れてしまった。ともかく、旧浅羽町に行った。私の育った故郷である。四年たっても交通の便の悪さは変わらず、袋井駅からバスに乗る必要があった。新堀はだいぶ変わってしまっていた。我が旧家は、すでに他人の手に渡り、庭木は引っこ抜かれ、生垣は半分以上枯れ、雑草が生い茂り、駐車場にはワゴン車がとまり。見るも無残な姿になっていた。ああ、心ない人の手に渡ったものだ。
その日はすぐに磐田に戻り、親父が良く飲んでいたという秀八という店で飲んだ。安くてあまりうまくない飲み屋だった。さて、行く当てもなく、午後十時半ごろにのんびりと歩いていると、道路を走っていたパトカーが止まって、中からお巡りさんが出てきた。周りには歩いている人もなし、私に用があるのだろう。
何と、職質だという。さすがにこれには驚いた。何しろ。まだ十時半なのである。十時半に男が一人歩いていたぐらいで職質をするというのか。磐田は何と平和なのだろう。何でも、あまりに大きい荷物をもって、夜中に歩いているので気になったらしい。それほど大きな荷物ではないし、タイヤ付きのバッグを引きずっているならば、旅をしているとすぐに分かりそうなものである。しかしお巡りさんに言わせると、「いやいや、そんなの言ってくれないと分かりませんよ」なんだとか。夜中に歩いているといっても、まだ十時半だし、酒に弱くもないので、千鳥足で歩いているわけでもない。この程度で怪しまれるとは、磐田は何て平和なんだ。どこへ旅をしていたのかとしつこく聞くから、東京とか神保町とか答えたら、そのお巡りさん、親近感を演出したいのか、「実は僕も神保町の交番で働いていたことがあるんです」などと言い出した。嘘か本当か知らないが、本当ではないかと信じさせるほど、あの神保町のお巡りさんを彷彿とさせた。片や三度も言ったことを聞き取れず、片や旅人を区別できないとは。
実は、そのまま浜松に行ってカプセルホテルに泊まるつもりだったのだが、職質を受けたものだから、是非とも磐田で野宿をしてみたくなった。そこで公園に行ってベンチに横になったが、どうも眠れない。雪駄が壊れたので捨てることにした。コンビニを転々として歩いているうちに、夜が明けた。
九月三日
さて、スーパーが開くまで待ち、お土産に黒はんぺんを買って帰った。思うに、黒はんぺんとは静岡が誇る素晴らしい食品ではないか。安い、うまいと申し分ない。何故これを全国で売らないのか。
帰りに思ったことはひとつだけ。東海道本線の大垣駅の連絡の悪さはどうにかならないものか。平日は三十分に一本ほどしか電車がなく、しかも乗り継ぎが悪く、二十分以上待つ必要がある。
いやしかし、自分がこんなにも貧乏旅が好きだとは知らなかった。また今度出かけよう。