明治二十六年の春のことであった。
その日の朝食は、豆腐と菜っ葉であった。私は、達観した心持ちで、豆腐と菜っ葉を口に運んだ。思えば、昨日の食事も、豆腐と菜っ葉であった。明日の食事も、豆腐とナッパに違いない。豆腐と菜っ葉には、利点がひとつある。安いことだ。それにしても、今朝は、その豆腐と菜っ葉さえ、量が少なく感じた。
食事を終えた後、私は、先生を伺いにいった。先生は、いつものように、どこか達観した表情で、私を見た。私は、何も言わなかった。まあ、わかりきったことだ。先生は、首にかけていた金時計を外して、しばらく、手のひらの内で転がしていた。金時計には、紙ひもで作ったこよりがつけてある。首にかける紐替わりにしているのであった。
やがて先生は、金時計を私に差し出して、言った。
「傳次郎君、この時計、どうも、また、狂ったようでな。直しに出しに行ってくれんかな」
私は努めて無表情を保ちつつ、金時計を受け取り、家を出て、その足で、質屋に向かった。
「まあ、まず十八円ってところだな」と質屋の親爺は言う。
「前は十九円貸したぜ。二十四円にしろ」
「二十円」
「上げろ」
「御免だ」
親爺は頑として譲らなかった。私は、金時計を質草に、二十円を得て、重い足どりで家に戻った。
「兆民先生、ねばったんですが、二十円でした」と私が言えば、
「そうか。まあ、そのくらいだろうな。仕方がない。でもまあ、あの時計は、まだマシな方だ。禁錮ですむんだからな。前は金鎖もついていたんだが、そっちは死刑にしたんだ。傳次郎君、君にも迷惑を掛けるね。なあに、そのうち大金を手に入れてやるさ。なあ幸徳君」
思えば、あの頃が、一番幸せな時代だったのかもしれぬ。その後、兆民先生は、金を儲けるためと称して、様々な事業に手を出した。時には遊郭の経営にまで乗り出した。しかし、兆民先生が金を儲けるために奔走すればするほど、ますます借金が増えるだけであった。
兆民先生・兆民先生行状記より。
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