子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者、斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恆者、斯可矣、忘而爲有、虚而爲盈、約而爲泰、難乎有恆矣
論語、述而
「不得而見之」という部分は、歴史的な訓読では、「得てこれを見ず」と読むらしい。それはおかしいだろう。不はどう考えても得にかかっているに決まっているだろう。古代支那人は、この文字の通りに発音して書いたはずで、否定する語がそんな離れた場所にある述語にかかるわけがない。つまり、あえて訓読するとすれば(訓読は邪悪だが)、「これ見ることを得ず」とでもなるはずだ、「得てこれを見ず」なんて、そもそも意味が通らない。第一、一体何を得るのだ。得てと読むからには、「(何かを)得て、而して、之を見ず」と解釈しなければならないが、この「何か」に当たる部分は何なのだ。
ちなみに、現代の中国人は、この意味を、「我不可能看到了」と考えているようだ。これをみても、やはり私の解釈の方が正しいように思われる。
思うにこれは、昔の漢学者は、而、という語にとらわれすぎていたのではあるまいか。その結果、「得てこれを見ず」などという、奇妙きわまりない訓読をしたのではあるまいか。
やはり、訓読は邪悪だ。そのまま読むに如かず。
と言いたい所だが、訓読を切り捨てるわけにも行かない。なぜなら、日本語に影響を与えたのは、疑いようが無く訓読であって、音読ではないからだ。
ところで、ふと思った。朝鮮や安南に訓読という文化がなく、日本にあるのは、畢竟、漢語ネイティブの有無ではないか。朝鮮や安南は、所詮は支那と地続きである。したがって、ネイティブは、それなりにいたはずだ。ところが日本というのは、海を隔てているだけに、必然的に日本に住む支那人は少なかったはずだ。むろん、国境なんてものがなかった有史以前の昔は、大勢渡ってきただろうし、それ以後も、支那から渡ってきた人間はいただろうが、やはり数が少なかったに違いない。日本に、今でいう華僑のような群を形成するほど多くはなかったのだろう。結局、皆日本に帰化してしまい、支那語そのものを日本に残すことはできなかったのだろう。
日本に支那人が少なく、また支那語が使われていなかったならば、支那音を学べるはずもない。その結果、訓読が発達したのでは無かろうか。
だいたい、漢字の音といってもこれがまたややこしい。一般に日本で使われているのは、其のもとをたどれば、大別して呉音、漢音、唐音(これはちょっと範囲が広すぎるのだが)、となる。また、慣用音と呼ばれるものがあって、これは当時の日本人の誤用が定着した音である。
ただし、その抑揚というか、発音方法というか、四声と呼ばれているものがあるが、これは日本語の漢字の音読みでは、ほとんど無視されている。唯一、入声の名残だけは残っている。例えば、入、筆、薬を、ニュウ、ヒツ、ヤクと読むが如きがそれである。
思いつくままに書いていたら、なんだか収拾が付かなくなったので、この辺で打ち切る。
No comments:
Post a Comment