ここしばらく、夜寝る前に日本霊異記をちびちびと読んでいたが、今日、ふと思い立って、全部読み通してみた。
霊異記は、常に価値のある文章である。第一に、相当古い。西暦800年頃に書かれたと考えられている。
その内容も、単に経典から引用したのではなく、世俗の話が書かれている。
興味深いことに、非常に似通った説話が、いくつもある。説話にはお約束があり、そのお約束からあまりに逸脱すると、不自然で興冷めしてしまうのだろう。
肝心の文章は、変体漢文で書かれている。意味を取ることぐらいなら、一応は出来るのだが、霊異記の筆者は、当然訓読みで読まれることを想定したはずで、その訓は、当時の言葉でなければならない。この当時の言葉で訓をするというのは、非常に難しい。後に加えられた訓点や、当時の複数の訓読み辞書、時には、他の文章の訓点を参考にしながら、然るべき訓を決定していく、地味な作業である。これは、真面目に行うと、何十年もかかる。
その他、「経に曰く・・・・・・」という文章が出てきた場合、実際に経典を調べて、本当にそんな文章があるのかどうか調べるといった作業もある。霊異記にも、いくつか、教に曰くと言いながら、そんな話はどの経典にも載っていなかったりすることがある。また、大般若経に曰くと言いながら、大般若経には載っていないこともある。また、何経に曰くと言いながら、その名前の経文は、存在しないこともある。こういう研究は、人生を潰せるぐらい、地味で時間のかかる作業である。
幸いにして、すでに先人達が相当に地味で時間のかかる面倒な研究で人生を潰してくれたおかげで、私は、気楽に霊異記を読めるのである。ありがたい話だ。
さて、いろいろ重複している話の中で、なかなか面白い共通点がある。
例えば牛だ。多くの話で共通しているのは、牛は、その前世某という者、人や寺の物を断りなく使い、その宿業によって、今牛となってこき使われているというものだ。なぜ物言わぬ牛に、そんな因縁があるとわかったかというと、人の夢枕にたったり、託宣があったりして、明らかになったのである。
あるいは、あの世に行く話だ。死んであの世に行った者が、写経や放生の善行によって、救われる話であるとか、それでも悪業が多くて刑罰を受ける話がある。この話が、当時の死生観も垣間見れて、なかなか面白い。
また、女の怪力の話もある。なぜか、怪力の話は、すべて女である。それも、いかにも筋骨隆々とした無骨な女ではなく、至って普通の、時には、周りからばかにされるぐらいの女である。神威は意外な者の上に現れてこそ、印象深いのだろうか。
下ネタに走ると、当時、男性器と女性器を、書物の上で、どのように記述していたのかという興味深いこともある。女性器に関しては、古事記では、陰という文字が使われていた記憶があるが、男性器の方は、たしか、古事記では、明確に書き表していなかった覚えがある。
ちなみに、霊異記や今昔物語では、男性器に対しては、マラという訓を当てている。では、女性器はどうか。これには、当時の訓読辞書によれば、クボ、ツビ、シナタリなどという候補があるらしい。岩波の霊異記では、どのように訓ずるかという問題を、脚注と補注で、大真面目に取り上げている。
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