2010-06-24

漫画の引き伸ばし手法について

漫画には、引き伸ばしという手法がある。これは一般に、より多くの話数を稼ぐ手法である。理由は単純で、経済的な利益のためだ。人気漫画が、すぐに完結してしまっては、全然稼げない。それ故、人気であればあるほど、露骨な引き伸ばしが行われることになる。

また、漫画家としての寿命を延ばす働きもある。およそ一個の人間というものは、その生涯に、そう何作もアタリを出すことはできない。長く活動している漫画家というのは、大抵、ひとつの大いにあたった作品を続けているか、あるいは、そのアタリ作の外伝を描くなど、その周辺で活動しているのである。まったく違う作品を描いて、どれも大ヒットというわけにはいかない。

さて、この引き伸ばし手法だが、私が思うに、時代によって変遷がある。そこでひとつ、これをまとめてみようと思う。

まず、昔の引き伸ばし手法だ。昔の引き伸ばし手法は、同じようなキャラクター、同じような大筋で、細部だけを変えるというものである。これは、例えば手塚治虫や藤子不二雄といった漫画家が、よく用いた手法である。

手塚治虫のキャラクターは、実によく記号化されている。作品ごとに話は違うが、出てくるキャラの外見や性格は、実によく似ている。話のネタは、大抵、古典などから引っ張ってくる。

藤子不二雄(ミドルネームがややこしいが省略)のキャラクターも、これまた同じように記号化されている。これも作品ごとに細かい事情は違うが、結局、皆似たような結果になる。

つまり、手塚治虫や藤子不二雄は、似たようなキャラクターと代替の筋書きを、微妙に異なる設定の作品で使いまわしているのである。彼らの作品は多いが、話の大筋は、大抵同じである。

実際のところ、これらの漫画を、単に漫画家個人の著作とするのには、私はどうも違和感を感ずる。というのも、彼らの作品というのは、実際のところ、手塚プロや藤子・F・不二雄プロと名乗る団体作品である。ピカソの作品が何万点もあるというのと、全く違いはない。ピカソの作品にしても、ピカソという名義を使っているだけで、本人がすべてを制作したわけではない。

言わば、同じネタの使い回しである。これについて、ほかならぬ藤子・F・不二雄の名言が残っている。おぼっちゃまくんで有名な小林よしのりは藤子・F・不二雄から、「おぼっちゃまくんは8年もつづいているのだから、もうあとは何年でも続けられる」ということを言われたという。おぼっちゃまくんは、当時、コロコロコミックで連載されていた。コロコロコミックの読者というのは、基本的に小学生である。また、おぼっちゃまくんは確かに面白いが、万人受けする漫画ではない。あの漫画を真に楽しむには、幼い子供であることを要する。つまり、8年もたてば、最初の読者は、もうおぼっちゃまくんを楽しめない年齢になってしまっている。とすれば、昔の同じネタを使いまわしても、読者は苦情を出さないのである。

さて、時代は移って、近代の引き伸ばし手法だ。これは、ひとつの作品に、新たなネタを供給し続けて、終わらせずに続けるという手法である。

これは、例えばドラゴンボールが有名だろうか。ピッコロ大魔王とマジュニアあたりまでなら、まだ最初の構想の延長という形で理解できた。そこから引き伸ばす必要がでてきて、サイヤ人やらフリーザやらをだした。ここまでは、まだよかった。そこからさらに、セルやら魔人ブウなどをだして、もうパワーインフレしすぎて破綻してしまった。とはいえ、ドラゴンボールは疑う余地なく、大人気の一流漫画である。

この手法に優れてるのは、週刊ジャンプの連載作である。普通、ひとつの作品では、そう長くネタは持たない。結局、終わらせなければならない時がやってくる。週刊ジャンプは、この問題に対して、すばらしい解決方法を編み出した。トーナメント制の格闘に移行させるのである。

格闘ならば、とりあえずいくらかの話数は稼げる。修業をするだけで数話稼ぐこともできるし、技の解説をするだけで丸々一話費やすこともできる。しかし、さらに優れているのは、トーナメント制の勝ち抜き格闘という手法である。これなら、とりあえずキャラを数十人用意しておくだけで、容易に話を展開させることができる。さらに、キャラごとに背景事情の解説などを始めると、さらに話数が稼げておいしい。

このため、週刊ジャンプでは、人気が出てしまって、経済的な理由でどうしても続けたいギャグマンガは、例外なくトーナメント制の勝ち抜き格闘に移行することになる。

さて、最新の引き伸ばし手法だ。手塚治虫のように、同じネタを使いまわすというのは、もうさんざん行われたので、今となっては、なかなかやりにくい。また、後からネタを付け足すのは、話に矛盾が生じてしまい、また力のインフレも激しく、これまた難しい。では、今の流行の引き伸ばし手法は何か。ひとつのネタを、できるだけ長く続けることである。

たとえば、以前なら、たったの数コマで終わらせていたものを、それだけで一話稼ぐ。これには、キャラの複雑で詳細な心理描写をしたり、回想シーンを挿入したり、「一方その頃、別の場所では」などという別視点の話を入れたりして、できるだけネタを温存して大切に使う。そのため、話は一話で起承転結をなさない。

そんなに引き伸ばしてばかりしていては、途中から読む読者が、話についていけず、結局、読者離れを招くだけなのではないかと思うのだが、よく分からないものだ。

この手法に最も優れているのは、福本伸行であろう。存在自体が天の外伝であるアカギで、もう十年以上も、たった一晩の麻雀勝負を描き続けている。惚れ惚れするまでの引き伸ばしである。

これらの引き伸ばし手法は、漫画に限った話ではなく、小説やアニメやゲームや映画などでも、存分に活用されている。最近、この露骨な引き伸ばしが嫌で、近代の作品を楽しめなくなってしまった。小説などを読んでいても、明らかに字数を稼ぐための、仕方がなくひねり出して書いたような質の悪い文章が目につき、作品の内容より、執筆中の作者の心理状況が察せられ、素直に作品を楽しめなくなってしまう。結局、原稿用紙何百枚相当の小説などというくだらない制限があるために、あるいは無駄な描写をいれ、あるいは必要な描写をそぎ落として、残りの絞りカスのすかしっ屁みたいな作品に成り下がってしまうのであろう。残念なことだ。

本来、作品に、そんなに長さは必要ないはずなのだ。状況説明とか、心理描写などは、無駄に長く書く必要はないのだ。ましてや、商業の小説は、規定の長さを満たさなければならないなどというのは、制限でしかない。

たとえば、悪者が正義の味方に銃を向けた場合、その銃がどのような機構で動作するとか、装填されている弾丸はホーローポイントなのでかくかくしかじかの理由により殺傷力が高いだとか、悪者と正義の味方の複雑な心理描写だとかは、必要ないはずだ。近代的な銃が非常に強力なことは、全読者が了解していることであろうし、その理解のために銃や弾丸の仕組みを説明する必要もないはずだ。銃を向けた者、向けられた者の心境も、さして長ったらしい詳細な描写を必要としないはずである。

銃がそうであるとすると、魔法とか超能力であっても、事情は同じであるはずだ。悪い魔法使いが魔法の杖を振り上げたとき、その魔法がどのような力を持つかなどは、わざわざ説明しなくてもいいはずなのだが、どうも現実の、いわゆる「剣と魔法の小説」の作者は、必ず説明を入れなければ、読者が承知しないと思っているようである。

作品の品質が、ある一定の長さを満たすかどうかをもって評価されている現状は、真の芸術のために、実に残念である。

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