2012-06-19

ヤマハの歴史と明治政府の音楽教育

ヤマハというとバイクやエンジンを作っている割に、楽器も作っている変な会社だ。ヤマハの社員だった親父は愛社精神あふれる人間で、よくヤマハの歴史の話をする。もともと車とバイク好きが高じてヤマハに入った人間だったので、わからないでもない。ちょっとヤマハの歴史が気になったので、資料を借りてみた。

資料というのは、2005年にヤマハが作って社員に配布していた社史だ。やたらと贅沢な製本をしている。タイトルは、「Times of YAMAHA 挑戦と感動の軌跡」とある。2005年というのは何かと景気が良かったらしい。

まず、山葉寅楠(やまはとらくす)(1851-1916)という人間がいた。この人は天文の家に生まれて、天体観測の機器に囲まれて暮らしていたので、幼くして機械への興味が強かった。

明治維新の後の1871年、長崎に赴いて時計や医療機械の技術を学んだ。その後は、大阪で医療機械の技師をしていたそうだ。

1884年、浜松病院で医療機械が壊れたため、招かれて修理した。しかしどうしたわけか、その後すぐに大阪には戻らず、しばらくは浜松にいて、時計を直したり、おもちゃをつくったりして過ごしていたらしい。

1887年7月15日、浜松尋常小学校でオルガンが壊れたために、山葉寅楠に修理を依頼した。当時のその日の公務日誌には、「本校備付オルガン破損せしにより機械師を招き之を修理せしむ」とある。

山葉寅楠は、オルガンの故障が2本のバネにあると見抜き、交換することで修理した。

ところで、なぜ尋常小学校にオルガンがあるのか。そもそも尋常小学校は、たった1年前の1886年、明治政府は小学校令を出して、全国に共通の尋常小学校を設置した。これは当時の明治政府としては非常によくやったことだ。教育は非常に重要であるし、全国に共通の教育機関を設けるというのは近代国家を作る上で非常に大事だ。その上で、明治政府は音楽教育にも力を入れていた。それも、西洋の音楽を取り入れようと努力していたのだ。今も残る多くの文部省唱歌が作られたことからも力の入れようが分かる。

しかし、日本国内にオルガンを作れるところなどなく、オルガンは輸入していた。役人の給料が2,3円の時代に、輸入オルガンは一台45円もする。相当に高い代物である。この輸入オルガンを各地の尋常小学校に設置したらしい。

ここで気になるのは、サポート体制だ。機械である以上、当然故障が発生する。山葉寅楠に修理の依頼がきた以上、故障を修理する体制が整っていなかったに違いない。一年で浜松のオルガンが故障するぐらいだから、故障は各地で起こっていたはずである。当時の明治政府というものも、よほど見切り発車で物事を進めたとみえる。しかし、全国に尋常小学校を作るのは、当然、早急に行うべき事業であり、そんなこまかいことまで気にして遅らせることはできなかったのだろうし、結果的にうまくいったわけだ。

実際、明治政府は郵便網の構築も行なっている。これは、当時の地方の名主などに命じて、給料も円ではなく米で支払い、仕事に当たらせたらしい。少し前の郵便改革で、事実上の世襲であるとして問題になった特定郵便局は、明治時代に早急に郵便網を構築する必要があった時代には妥当性のあった仕組みなのだ。

さて、オルガンの修理を終えた山葉寅楠は、その仕組みに興味を持ち、自分で作ってみたいと思うようになった。資金は浜松病院の院長である福島豊策に援助してもらい、医療機械やオルガンの修理での協力を受けたカザリ職人の河合喜三郎から仕事場に部屋を貸してもらい、作業にかかった。手作業による加工の困難さと、使っている材料の代替品を探す苦労に悩まされたという。

音を発する金属片のリードは真鍮板を切り、弁は自分で合金したものを1枚ずつヤスリにかけてつくる。鍵盤に張るセルロイドの代わりには、三味線のバチや裁縫用の牛骨へらを磨いて使った。

Times of YAMAHA 挑戦と感動の軌跡 49ページ

1887年9月に、オルガンを完成させた。なんと、オルガンに出会ってから、たったの二ヶ月で複製したというのだ。

さっそく弾かせてみるが、評判が悪い。そこで、東京にある音楽取調所(今の東京芸術大学音楽学部)に持ち込んで審査してもらうことにした。このとき、山葉寅楠と河合喜三郎は、静岡から東京まで、作ったオルガンを天秤棒で担いで、箱根を超えて東京まで人力で持っていったという。

音楽取調所で審査したところ、「調律が不正確で、使用に堪えない」という評価になった。形はオルガンでも、調律がまるでダメだというのだ。山葉寅楠は当初、西洋音楽の音階に関する知識すら持たず、最初のオルガンを作ったから当然の結果だ。しかし、そこで山葉寅楠はあきらめない。調律について質問を浴びせた。その熱意によって、特別に音楽理論や調律の講義を受けることが認められた。

山葉寅楠は東京で一ヶ月みっちりと学んでから浜松に戻った。そして、1887年の年の暮れに、2台目のオルガンを作り上げた。再び音楽取調所に持ち込んだところ、今度は「舶来品に代わり得るオルガン」という高評価を受けた。

それにしてもこの行動力はすごい、7月に初めて目にしたオルガンを、2ヶ月で複製し、不具合が判明すると、1ヶ月で必要な知識である音楽理論や調律を学び、またまた2ヶ月以内に、完動品を作り上げる。早い。

1 comment:

Anonymous said...

河合喜三郎さんは、やっぱりKAWAI?