平家物語の俊寛は、とても不幸である。平家に謀反を企てたかどで、成経と康頼とともに、鬼界ヶ島へ島流しにあう。成経と康頼は信心深くて、千本の卒塔婆を作って海に流したり、鬼界ヶ島のあちこちを、都人が信仰する場所とみたてて祈ったりしていたが、俊寛は不信心の人だったので、祈らなかった。
しばらくして赦し文がでたものの、一緒に流された成経と康頼だけが帰ることを許され、俊寛は一人残る。その後、家来であった有王が訪れ、やせ衰え、骨の節々が目立ち、餓鬼のようになった俊寛に会う。息子や北の方も亡くなり、娘は無邪気に、早く帰って来いなどと手紙を書いたことを知り、「生きているからこそつらいのだ」という真理を悟って、自殺する。
平家物語のこの話を読んだとき、どうも違和感があった。俊寛は本当にそんな奴だったのだろうか。流罪になったからといって出家するような、現金な康頼と違い、俊寛は元から坊主である。世捨て人であれば、流罪になろうが死のうが、どうでもいいはずだ。
そこへきて、芥川龍之介の、俊寛は面白い。非常にポジティブで、人間的な俊寛を描いている。これでこそ俊寛だ。
だいたい、平家物語はちょっと考えればおかしいのだ。まず、流されたのが治承元年(1177年)である。 翌年の治承二年(1178年)には、赦し文がでて、少将と平判官は都に帰っている。有王が訪ねるのが、その次の年の治承三年(1179年)である。
まず、千本の卒塔婆がありえない。島流しにされてから、赦し文が出るまでの間に、千本も卒塔婆を作って流したということである。この間、わずか一年に満たない。成経と康頼の二人だけで、わずかの間に千本も卒塔婆を作るのは、並大抵のことではない。だいたい、加工しやすい材木なんてないのだ。その辺に生えている木を切り倒して、卒塔婆の形に削らなければならぬ。
また、そもそも鬼界ヶ島はどこかということについては諸説あるが、いずれも薩南諸島あたりなのだ。私は、言葉の通じぬ土人がいるという下りから、喜界島ではないかと思う。言葉が通じないといえば、当時の琉球人だろう。いずれにせよ、台風こそくるものの、一年中暖かい土地だ。都の風景はないにしても、景色も悪くない。
そして、流されてから三年後の治承三年(1179年)に有王が訪ねたとき、俊寛はガリガリに痩せており、有王をして、我餓鬼道へ来るか、と思わせたほどだと書いてある。
しかし、少なくとも二年間は、少将の親戚からの仕送りがあったはずだし、少将が帰るので仕送りをやめたとしても、たったの一年足らずで、そこまで劇的に変わるだろうか。
やっぱり、芥川龍之介の俊寛も、いい線いってるんじゃない? 有王から都の話を聞いて、悲観して自殺に望んだとしても、言われているほど不幸だったとは、どうも思えない。
まあ、物語は美談を好むわけで、真実かどうかは関係なく、こうでこそありたけれ、という思いが、こういう思考をさせるのかもしれない。
例えば、勧進帳の富樫のように。富樫だって、最初は、まんまと騙されたマヌケとしか認識されていなかった。だいたい、名乗りが「加賀の国の住人」だけしかないところで、あまり意味はない人間だ。当時の人の美談は、か弱い義経を、周りの主従が助けるところにあったと思われる。ところが、今ではまるで違い、「富樫は義経と見抜きつつも、弁慶の忠義に感動して、敢えて通した」ことが美談となっている。
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