2008-06-23

歴史に名を残す際に気をつけるべきこと

平安人は勉強家? 九九を何度も練習 豊岡の木簡 

 兵庫県豊岡市日高町の祢布ケ森遺跡で大量出土した木簡の中には、九九の練習で計算間違いをしているものがあった。調査した豊岡市教委は「当時の官吏の人間味が感じられる」と話している。

 木簡は勉強するとき、現代のノートのようにも使用していたという。間違いが見つかった木簡は長さ三一・六センチ、幅二・九センチの細長い形で、裏面に九九を記していた。

 現代とは逆に大きい数の九九から始め、六九から四九までを飛ばした後、「三九廿四(さんくにじゅうし)」と間違えている。

 見つかった二百三点の大半は、この木簡のように文字や計算を練習した跡だった。

 表面を削って再利用できるが、木片も多く確認されており、繰り返し勉強した様子がうかがえる。

 九九が書かれた同時期の木簡は他にも例があり、今回も計三点出土。解読した奈良文化財研究所は「官吏が一生懸命活動していたことを示す史料」としている。(上杉順子)

このたび、考古学的にとても興味深い木簡が、多数出土した。荷札あり、索引あり、その中に、九九の練習に用いたと思われる木簡があったらしい。しかも、間違えている。この役人は、是非とも自分の名前を彫り付けておくべきだった。そうすれば、後世に、自分の名と笑いを残せたであろうに。

さて、歴史に名を残すには、何も偉業を成し遂げる必要は無い。ただ現代のとりとめのない記録を、はるかな未来、例えば千年後に残るようにしておけばよい。千年前の退屈な日常というのは、考古学上とても貴重な情報である。もちろん、上の例のように、わざと笑いを誘う記録を残しておくのもいい。

さて、具体的な記録の残し方だが、CDやHDD、フラッシュメモリなどは役に立たない。現代使われているストレージは、数十年もすれば、読み取るための機械すら生産されなくなってしまうだろう。紙に書くのは、数百年ぐらいならば簡単に保存できるが、それ以上となると難しい。やはりここは、木や石に彫るべきである。

内容は何でもいい。自分の一日の詳細な日記だけで、遠い未来には、とても貴重な情報になっているからだ。もし笑いを取りたいのならば、わざと字を間違えておこう。さらに、一見平凡でまじめな日記に、いくつかとんでもない嘘を書いておくのも面白い。文面の例を挙げると、「現代では、光の速度を超える通信方法が確立されており、地球の裏側の友達へのpingは1ms以内なので、一切ラグのないFPSゲームを楽しめる」などだ。もし将来、光の速度を超える通信方法が発明されていれば、オーパーツとして話題になるし、あるいはまた、結局光の速度は超えられなかったとしても、考古学者の間で議論を呼ぶことは確実だ。

さて、情報を未来に残すことはできるが、自分自身はどうだろうか。化石として未来に骨を残せば、これも貴重な資料になる。あるいは、自分の肉体を腐敗させずに未来に残すことができれば、なお良い。

さて、より貴重な資料である、肉体の残し方について考えよう。よく博物館にある、Tレックスの化石とは、実は骨ではなく、骨が鉱石によって置換されたものである。肉体を腐敗させずに百年、千年の長きに渡って残すことは難しい。しかし、不可能ではない。SF小説に良く出てくる、カプセルの中で保存するような方法はお勧めできない。なぜならば、その機械が数千年に渡って稼動し続ける保障がないからだ。簡単な方法が二つある。ひとつは、永久凍土の中で氷付けになることで、もうひとつは、タールの池のなかに身を沈めることだ。

さて、肝心の笑いだ。もし無差別殺人に快楽を見出すというのであれば、マイナーな感染力の強い伝染病にかかっておこう。そうではなく、単に笑いを誘いたいだけならば、何か奇妙なものを飲み込んでおくべきだ。千年後の考古学者達が、自分の保存状態の良い肉体を調べたところ、胃袋にMP3プレイヤーが入っていたとしたら、だいぶ笑えるはずだ。

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