2009-05-14

自己の性格

二十餘年間、生きてきて、自己の性格というものが、おぼろげながら分かったような気がする。自分は、漠然とした向上のために動くことはできるが、明確な目標のために動くことはできないらしい。

漠然とした向上とは何か、絶対に手が届きそうにない理想、則ちこれなり。明確な目標とは何か、計画により順順と行えば、確実に達成できるであろう事柄、則ちこれなり。

昔から本が好きだったので、暇さえあれば本を読んでいた。今から思えば、書を読まないよりは、読んでいた方がいいと言える。英語を積極的に学んだ。理由は特になかった。ただ、将来役立つだろうという漠然とした思いはあった。プログラミングも学んだ。しかし、常に学ぶこと半ばにして、放り出してしまう。どうしても、これを極めようという気が起こらない。第一、極めてしまったら、面白くないではないか。知らないことがまだある方が、面白いのだ。

明確な目標のために動けないというのはどういうことか。たとえば、「かくかくしかじかのプログラムを作りたい。そのためには、とらとらうまうまの作業が必要である。そこから考えると、今日のコーディング作業によって、全体の何分の一ができあがる。退転なくこれを行えば、三ヶ月後には完成するであろう」というがごとき話である。自分は、こういう明確な目標を、きっちりとした計画の元に進めていくことは嫌いである。だから、私が旅をするとなると、たいがいこんな調子だ。その点から言えば、プログラマには向いていないと言える。いや、そもそも事務的な仕事には一切向いていないと言える。画家や詩人ならこれでもいいのかもしれないが、残念ながら、私には絵心も詩心もないときている。已んぬる哉。

1 comment:

萌え said...

随分悩んでおいでですな。
青春は悩みと見抜いたり。大いに悩め、青年よ。
わたすの場合は気づいたらプログラムコンサルティングのような
SEと呼んでいいのかすら怪しい仕事に就いておりますた。
リファクタリングとOOPLが主な仕事ですが。

りんごのブログの方ちゃんと更新しなくてすんまそん。
なんせデザパタはプログラム例を出すのがすごく困難なのです。
それにあれはGCが付いているJava向け。どう考えても。