2008-10-21

真実の壇林寺と壇林皇后

古道具屋はともかくとして、本当の檀林寺はいったいなんだったのか。実は、あまり良くわかっていない。

嵯峨天皇の皇后は、橘嘉智子で、別名檀林皇后と呼ばれている。檀林皇后は仏教の信仰厚く、弘法大師に勧められて、日本最初の禅寺を作った。作られたのは承和の間(834年から847年の間)で、場所は、現在の天龍寺のあたりで、かなりの大きさだった。慧萼(えがく)という法師を唐に送り、義空という禅僧を招いた。とはいっても、義空は数年で唐に帰ってしまう。そもそも日本に禅宗が広まったのは、鎌倉時代のことで、それも武士の間で流行したのだ。平安時代の貴族達には、禅の教えはあまりしっくり来なかったのだろう。檀林寺は、平安中期には滅びてしまう。

檀林寺に関しては、これぐらいしか分かっていないのだ。だからこそ、平安末期に盛遠が檀林寺で祈ったという話が噴飯ものなのだ。

ところで、壇林皇后についてなのだけれど、私はどうも、かの呂太后や則天武后や西太后もかくやと思われるほどの人物だったのではないかと推測する。まず、他人を押しのけて天皇の皇后となるには、並々ならぬ努力が必要であろうし、ライバルが多い時には、天皇がわざわざ訪れてきても、追い返している。容姿もまた奇妙なもので、文徳実録には、「后為人寛和、風容絶異、手過於膝」と記述されている。ひととなりが寛和であるのはいいのだが、風容が絶異であるというのはどういうことだろう。美しいとか厳かではなく、絶異というのがよく分からない。名状すべからざる、とか、何とも形容しがたい、などとは。手、膝に過ぐというのも奇妙だ。まさか傴僂であったわけでもあるまいに。

それでも、日本は平和だ。かの呂太后、則天武后、西太后には、おぞましい逸話がたくさん残っているが、壇林皇后には、さっぱり残っていない。そもそも、日本における悪女とは誰をさすのだろうか。

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