2012-04-12

大学に行くべきだったのか

C++の参考書は、ようやくテンプレートまで進んだ。この項目は、大胆な割愛や、簡略化した説明をしなければならないだろう。テンプレート仮引数とテンプレート実引数を完全に分離して説明するのは、さすがにわかりにくい。

しかし、いまさらになって、大学に行かなかったことが失敗ではないかと思いつつある。

理由はいろいろあるが、私は当時、大学に行かなかった。親の別居やら引越しやら、その理由を当時の外部要因に求めることはたやすいが、結局、大学に行かなかったのは私の責任である。

そして今、私がC++を学ぶために何をしているかというと、規格や論文の読解である。私は一度も、論文の構造とかプログラミング言語の規格書の構造について学んだことはないが、なんとなく感覚で会得していった。

これは正しくない学び方だ。最初に、学問を学問として、系統だてて学んだ方が良かったと思うのだが、いまさら悔やんでも始まらない。もちろん、論文の構造は、大学に行かなくても学ぶことはできるが、必要でないものは、なかなか学びにくい。

思えば、私は常に、物事を感覚で学ぶ人間であった。英語だって、私は未だに感覚で使っている。そのため、「お前の英語はおおむね正しいが、articleやpluralなどの基本的な所が抜けている」とよく言われる。これは、どうしても感覚で覚えるのが難しい、基本的な文法である。このような基本的な文法に違反することが、いかに不自然であるかは、日本語学習者の使う日本語を見ればわかる。

といっても、今から大学に行くのは難しい。まず金だ。金がないから仕事を探しているのに、金の必要な大学に行くのは本末転倒もいいところだ。奨学金と称する学費借金はあるが、結局、問題を先送りするに過ぎない。今日の金に困っているのに、さらに何百万の借金を負うのだから。

さらに、高校を卒業してだいぶ間が開いてしまったので、大学入試を突破するのも難しいだろう。この間、半ば趣味として今も向上している知識は、古文、漢文、英語だけである。私の目的とするプログラミングの分野とはかけ離れている。

それに学位取得自体には、まったく魅力を感じない。

なぜこうなったのか。私の目的とは、プログラミング言語やソフトウェアの歴史を学ぶことであって、それには英語の読解力が必要だった。私は昔から読書好きで、言語に関しては興味があったので、古文、漢文、英語は自然と身についたのだ。今でも古文漢文はよく読む。

しかし、数学とか化学、物理、生物とか、単純な暗記力を必要とする歴史や地理や政治社会は、どうも身につかない。説話集とか、平家物語の諸本に関してはだいぶ読んだが、治承が西暦何年で、崇徳院が流されたのはいつで、壇ノ浦の戦いは西暦何年に起こって、などといったことは、全く頭に入らない。それよりは、頼朝が院宣を持して宇治川に臨んだとか、平家軍は羽音に驚いて逃げたとか、頼朝は手水うがいして神仏に感謝したとか、そういったことの方が頭に入る。

だからどうも、私がプログラミングといったとき、実用的なコードを書くのではなく、プログラミング言語やプログラミング周辺の背景事情や歴史などを学びたがるのは、どうも生まれ持った気質ではなかろうかと思う。

そういえばひとつ気になるのが、私の記憶では、C++ Working Group日本には、大学機関に所属する博士がいないということである。というより、皆企業の代表か個人で参加している人間だったはずだ。博士号取得者がいるとしても、企業に属する博士しかいないはずだ。この事実は一体何を意味するのであろうか。

C++を教育している日本の大学はあるはずだ。もし、日本でC++を研究している博士がいたならば、C++WGの日本支部に籍をおいているはずである。しかし、みあたらない。はて。

アカデミックなところは理解できない。

3 comments:

惑星 said...

USのホテル業界では、ホテルで働いてお金を貯めて大学に行き、そのあとより賃金のいい仕事につく、という話を読んだことがあります。

※世界最高のホテル プラザでの10年間 奥谷 啓介 (著)

今それをするのが最適かどうかは別として(当然USと日本では状況も違いますし)、必ずしも本末転倒ではないと思います。

Anonymous said...

YouTubeやiTuneにある大学の講義の動画なんかはどうでしょう?
結構おもしろいのがあります。

江添亮 said...

別に学ぶだけなら、もはや大学でなくてもいいんですよね。
それにおそらく、日本でまともにC++を学べる大学なんてないでしょうし。

ただ、草書体の読み方、書き方とかは、師匠がほしい。
まあ、習字も大学で学ぶ必要はないのですが。
漢文訓読も師匠がほしいですね。
訓点さえ振ってあれば読めるのですが。