平家物語の諸本と愚管抄に云ふ。白河天皇の御宇に、内宮の賢子に王子産ませ給ふべきと思し召して、三井寺に頼豪てふ阿闍梨の侍りけるに、この御門、「汝皇子祈出してんや、効験あらば勧賞は乞に依べし」と被仰含。頼豪、肝胆を砕て祈申ける程に、程なくして中宮、敦文親王を産ませ給ふ。
さて頼豪、勧賞に三井寺に戒壇を建てん事を乞ふ。御門諸宗に之の是非を問ふ間、独り山門の大衆のみ不肯。これによりて勅許なし。頼豪激しく腹立ちて、「ひ死にして、王子も取り参らせん」と云う程に、御門聞召して、親しき人をやりてこれを説得せんとすれども甲斐ぞ無し。やがてひ死ににこそ死ににけり。程なくして、王子三歳と申しけるに、死ににけり。
これは、平家物語の諸本と愚管抄の一致して伝えることである。その内容も驚くほど似通っている。ところが、この話は、ここでしか出てこないのである。そのほかの文書には、こんな話はまったく出てこない。そもそも、敦文親王が薨ぜられたのは、承暦元年の九月六日のことで、その理由は、疱によるものだというのが、複数の旧記に書いてある。だが、頼豪はそれより八年も後、応徳元年五月四日に、仏前に結跏趺坐して寂滅したという、確かな記録が残っている。すると、平家物語と愚管抄の話にある、頼豪が思い死にして、その後に王子を呪い殺したという話は、そもそも成立しない。
なぜこんな虚構の説話が、平家物語と愚管抄だけに共通して見えるのか。
愚管抄の作者は、近年の研究によれば、慈円の作であるというのが定説になっている。また、平家物語の作者は、徒然草の第二百二十六段の記述を信頼するならば、信濃前司行長が書いたものである。この段に書かれている慈鎮和尚というのは、慈円のことである。他にも、徒然草の第六十八段では、吉水和尚とも呼ばれている。
とするならば、愚管抄と平家物語の作者は、師匠と弟子の関係にあたるわけだ。案外、現在残っている有名な文章の世界というのは、狭いものなのかも知れない。
また、愚管抄が、原平家物語とでも呼ぶべき物を参照しているのは、読めば明らかである。特に、アホ右翼の重盛をやたらに持ち上げる平家物語を、ヒガ事と言っている。
現在、平家物語といった時、作者は単に独り行長のみではなくて、大勢の人の増補を受けたものを指すので、少し注意が必要なのだが。
ああ、それにしても、行長の書いた本来の平家物語は、どんな感じだったのだろうか。延慶本が、比較的よく伝えているとは言うが、それでもまだ、明らかに後世の加筆とおぼしき物があるらしい。
また、平家物語の原作者という究極の問題を、さらりと書いている徒然草というのが、すごすぎる。それでいて、徒然草は簡単で、現代でも広く読まれている。吉田兼好はよほどすごい奴だったのだろう。多分、横にいたらウザい奴だったとは思うが。
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