2009-06-01

どうも訓読は無意味としか思えない

図書館から孔子家語を借りてきたが、これが、書き下し文と現代語訳しか載っていないという最悪の本だった。原文を載せろ、原文を。

以下のように書いてある。

得て聞くべきか

まあ、おそらくは「可得聞乎」なのだろうが、一体どういう訓読の仕方だろう。この「得て」と読むのは、どうも解せない。外にも、有名な訓読として、以下のものがある。

子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性與天道、不可得而聞也。

子貢曰く、夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからず。

論語、公冶長

どう考えても、この得てというのは、誤読だとしか思えない。もちろん、その解釈の意味としては間違ってはいないが、得て、と読んでは、日本語として通じない。せめて、「聞くことを得べきなり」と読めば、日本語的にもわかりやすいであろうに、どうも、而は、「しこうして」と読まなければならないというような固定観念があったように思われる。私の言語的直感では、而というのは、二つの後をつなぐ、非常に緩い意味の言葉であったように思われる。やはり、漢文は訓読するべきではない。現代中国人はどのように解釈しているかというと、

子貢說:“老師的文章,可以聽得到;老師有關本性和天道的理論,不是光靠聽就能理解的。”

やはり、この方が自然だ。

何で違和感があるかといって、可がかかっているのは、得であって、聞ではないと、私の言語的直感が告げている。得がかかっているのは、聞である。つまり、「聞くことを得ることが可能である」、という意味であって、「聞くことが可能ということを得る」、では、明らかに変だ。

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