聞説、明惠は夢日記を能くしたという。夢日記を継続して付けていた変人というのは、あまり世の中にいない。京都博物館で、明惠の肖像画をみたが、実に不思議な絵になっていた。なにやらニョキニョキと生えた不思議な植物の上に座す明惠という構図になっている。明惠といえば、ああいうイメージなのだろう。
三角比の勉強に疲れて、つい、うとうとと居眠りをしてしまったのだが、夢に学生だった頃のことを見た。中学の友人が、馬鹿なことをしていた。高校の友人が、これまた馬鹿なことをしていた。ああ、願わくは、あの頃に戻りたいものだ。しかし、今さら学生に戻るというのは、現実的ではない。
実際、私はそれほど恵まれた学生時代を送っていたわけではない。小学校時代、毎日2kmの道を、歩いて学校に通わなければならなかったし、高校時代は、毎日10km以上の道のりを、自転車で登校しなければならなかった。それから考えると、いまは幸せだと言わざるを得ない。
人は、過去のことに関しては、「色々あったが、結局、昔は幸せだった」と考える傾向があると聞く。どんな境遇にあろうと、自分の人生を振り返って、最悪の人生だったと評する人間は、精神を病んでいる人を別にすれば、あまりいないらしい。つまり、意のままにならぬ住みにくい人の世では、こういう幸せ補正とでも名付くべき機能を有せずんば、まともに暮らしていけないのであろうか。
夏目漱石はこういう時、芸術が生まれると、草枕に書いている。しかし、私の詩心はないし、絵も能くしない。歌うとか、演奏するなどといった行為にも秀でていない。小説を書きたいという夢はあって、過去に試みたことがあったが、自分の筆の拙さを実感するだけであったし、今もまた、自分の一生を振り返って、私小説でも書こうという気にはならない。もっとも、純文学というジャンルの小説は、もはやとっくに廃れてしまっているのだが。
世の中はままならぬものだ。
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