伊勢物語に、以下の文がある。
むかし、おとこありけり。そのおとこ、身をえうなき物に思なして、京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人ひとりふたりしていきけり。道知れる人もなくて、まどひいきけり。三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ、八橋といひける。その沢のほとりの木のかげに下りゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。
唐衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思
とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙落してほとびにけり。
この部分を、当時、中学生か高校生の時に読んで、はて、乾飯はどうやって食べたのかという疑問がわいた。
乾飯とは、現代風の言い方をすれば、アルファ米である。常々アルファ米のことは不思議に思っていたのだが、はて、ご家庭で作れるのだろうか。ちょうど、米が茶碗一杯分余っている。少々堅くなっており、もはやお茶漬けやおかゆにデモしない限り、食べにくい状態となっている。明日、天日に干してアルファ米を作ってみるつもりである。はたして水で戻して食べられるのだろうか。
ところで、乾飯と言えば、もう一つ思い出す話がある。それは「ちいちゃんのかげおくり」と題するお話で、今はどうか知らないが、当時の私の小学校の国語教科書に出てきた話である。そこで、ちいちゃんが「ほしいい」をかじったという記述があったように思われる。しかし、あの話は、なんだか小学校低学年の教科書としては、問題があるように思われる。当時の私の小学校では、「最後の場面で、ちいちゃんが見たのは何であったかについて作文しなさい」という課題がでたので、私は以下のように書いた。
ぼくは、ちいちゃんがみたのは、りんしたいけん、とよばれているものだとおもいます。りんしたいけんとは、しぬちょくぜんにのうがみるもうそうのことです。だから、ちいちゃんは、しにかけでかってにつごうのいいまぼろしをみて、かってにまんぞくしてしんだのだとおもいます。
当時の小学校の教師は、私のこの作文を読んで、問題があるとした。そのくせ、では正しい解釈は何なのだと訊ねても、教えてはくれなかった。今考えても、この解釈に問題があるとは思えない。いやしくも常識人ならば、いわゆる「天国」などと称するアホくさい宗教上の概念を持ち出してこの話を説明するを肯んぜず。一方、九死に一生を得た人は、ある程度共通した幻をみるというのは、よく知られたことである。実際に、多数の人に調査した例がある。従って、この物語の最後は、脳が死ぬ間際に見せた妄想であると答えるのは、理にかなっていると言える。
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